駒沢で生まれ育った杉田秀之さんは、現在NPO法人パラベンチャーズを立ち上げ、「誰もが行きたい場所に行ける社会」を目指して活動しています。ハンディキャップの有無にかかわらず、一歩を踏み出すきっかけをつくりたいという想いの原点は、19歳のときに経験した大きな出来事にありました。
大学のラグビー部の合宿で脊髄損傷という大怪我を負った杉田さん。周りのサポートを通して見つけた自分の生き方、そして福祉を通して描く社会について聞きました。前編では、大きな挫折を経験しながらも歩み続けた軌跡、そして現在の活動へとつながる原点をたどっていきます。
甘えん坊の末っ子がラグビーに目覚めた中学時代
杉田さんは4人兄弟の末っ子ですが、幼少期はどんな子どもだったんですか?
【杉田】絵に描いたような甘えん坊の末っ子だったと思います。いつも母親の後ろにくっついて生活してました。ぼくが生まれた時は上の姉が9歳、兄が7歳、もう一人の姉が5歳で、兄弟に育てられた感覚があります。外に出れば「杉田の弟だ」ってみんな遊んでくれた記憶があって。ぼくは駒沢保育園、駒沢小学校、駒沢中学校を卒業していて、やっぱり地元が好きなんですよ(笑)。
もともと体を動かすことは好きだったんですか?
【杉田】大好きでした。小学校から中学校までずっとバレーボールをしていて。体も大きいのもあって、近所のお兄さんが多摩川の河川敷でラグビーをしているチームを教えてくれたんです。そんな出会いで、去年中学部が日本一にもなった「世田谷ラグビースクール」に体験に行きました。
ラグビーとバレーボールって、対極のスポーツなんですよ。バレーボールはネットを挟んで、絶対に相手と触れ合わない。

確かに。
【杉田】体をぶつけるスポーツというのが新鮮でした。ラグビーは15人で試合に出るんですけど、ポジションの役割がぼくには魅力的にうつったんです。
どのポジションだったんですか?
【杉田】プロップという比較的体が大きい人がやるポジションです。スクラムやラインアウトなどのセットプレーで、仲間にボールを供給する縁の下を支えるような存在。
そこが起点になって、ボールが味方側に渡るんですね。重要ですね。
【杉田】すばしっこい人はボールを持って走るポジションを任されるんですけど、特に足が速いわけでも、器用なわけでもなかったので、体をぶつけるプロップがぼくには合ってました。フィジカルの強さを活かせますし、自分の特性を発揮できて楽しかったですね。
それから、世田谷ラグビースクールには世田谷区外から通う仲間がいて、外の人と触れ合えるのも中学生のぼくにとっては刺激でした。
体をぶつけるのは怖そうですがーー
【杉田】なんで人とぶつかるかというと、ボールを守るためなんですよね。基本的に自分がプレイで目立つことはないけど、ボールを守れば仲間につなげられるし、仲間がボールを持って走ればトライにつながる。
高校選びもラグビーを軸に?
【杉田】そうですね。高校受験の時に自分なりにいろいろ調べるなかで、本気でラグビーを続けることを考えたら、慶應義塾大学が候補にあがりました。慶應のラグビーは体を低くした鋭いタックルが特徴で、この大学でラグビーをしたいと思うようになっていって。受験をして付属校の慶應義塾高等学校に進学したんです。
はじめに「杉田の弟」とおっしゃっていましたが、兄弟の存在も少なからず影響していましたか?
【杉田】実は兄はかなりやんちゃなタイプで(笑)。ぼくが中学校に上がって「杉田の弟だ」と言ったら誰も手を出さなかったくらい。ヤンキーや不良という言葉は使わないですが、ヤンチャだったと思うんです。それでも、とにかく兄は友だちが多くて、まわりの人に信頼され、人望がありました。今も一緒に事業をしています。
だから、逆というか、ぼくはわりと優等生としてやっていました。兄弟でも役割ってありますよね。

「タバコに火をつけたい」が原動力に
その後、大学1年生の合宿の練習試合で、脊髄損傷という大きな事故に遭われたとということだったのですが、当時はどんな心境だったんでしょうか。体が動かない状態を、どう受け止めていったのでしょうか?
【杉田】難しいですね。最初は「ぼくは大丈夫だ」とか、「きっと治る」と思ってたんですけど、やっぱり現実はそうじゃなくて。首から下を触れられても感覚がない、自分で体を動かすこともできない。食事もトイレも自分で全部はできない状態でした。
大学1年生なんて、一番楽しい時期ですよね。同級生は変わらずラグビーをやって、高校時代よりも充実した大学生活を送っていると思うと、やっぱり「どうして自分が」という思いはありました。医師からは一生寝たきりかもしれないし、一生車椅子生活かもしれないという宣告も受けていたので、当時はとても受け入れられませんでした。
ただ、何ヶ月か経ったころから、少しずつ体を触られる感覚が戻ったり、足が動き出したり、回復の兆しが見え始めたんです。そこからはだんだん体が良くなっていくことが嬉しかったし、何よりも家族や友人はぼくをすごく励ましてくれて。落ち込んでる自分よりも、頑張ってる自分を見せていこうと思いました。もちろん気持ちの波はあるんですけど、日々できるだけ良い発見をすることを心がけました。
症状が大きく改善しなくても、工夫して自分でご飯を食べられるようになったとか、自分で着替えができるようになったとか、そういう「できること」を増やしていくことを意識してましたね。
遊びたい盛りの時期ですし、相当大変だったかと思います。
【杉田】荒れてたと思います。親がお見舞いに来てくれるのも辛かったですね。仕事があって、他の兄弟もいるなかで、それでも毎日様子を見に来てくれたのに、相当に失礼な言葉をぶつけていたと思います。
当時はまだ病院に喫煙所があって、タバコが吸える時代だったんですよ。吸う人も吸わない人もしぜんとそこに集まって、ひとつのコミュニティのようになっていました。通院の人もいたので、「家のここに手すりをつけたらいいよ」とか、「こういう車椅子がいいよ」とか、「こうやったら着替えがうまくいくよ」という情報が集まってたんですね。
19歳で怪我をして、20歳の誕生日を病院で迎えたときには、喫煙所で「杉田くん、今日ケーキ出てたね」と声をかけられて。「20歳になったからタバコ吸えるじゃん」と、そこでタバコを覚えました。
なるほど。
【杉田】指もほとんど動かなかったので、ライターを自分でつけられるようになりたいと思って練習してたら、指が動くようになったりしてね。やさぐれているときは、ずっとタバコを吸ってました(笑)。
小さなことからコツコツと積み重ねていったんですね。
【杉田】そうしていくしかありませんでした。復学してからも、車椅子で学校に通うのは辛かったし、歩けるようになってからも人の目を気にしてたので辛かった。でも、良くも悪くも少しずつ慣れていって。それを障がいの受容というのかもしれません。ぼくは今年でちょうど38歳になるんですけど、19歳で怪我をしたので、人生の半分が脊髄損傷とともに生きていることになります。折り返し地点をすぎて、今はようやく「これが自分だな」と思えるようになりました。
そうした感覚は、それまでの友だちと共有できましたか?
【杉田】正直、できなかったです。やっぱり病院でしか生まれない関係性もありました。
そんな中、ぼくは大学に行かせてもらって、頑張れば復学できるし、将来は働くこともできる感覚がありました。でもリハビリ室には、生まれつき障がいのある子や、後天的に怪我を負った幼い子がいて。
ぼくが平行棒で歩行の練習をしてると「お兄ちゃんは体が動いていいね、すごいね」って声をかけてくれるんだけど、その子のご両親はわが子の将来を憂いてる。そんな光景を目の当たりにしたときに、誰でも当たり前に生活できるような世の中でないといけない。それが、福祉に関心を持つきっかけでもありました。少なくともぼくは学んだり働いたりできる環境にあるんだから、一生懸命にやろうと考えるようになったんです。
当事者だけでなく、ご家族も大変な状況ですよね。
【杉田】そうなんです。当事者本人が怪我や病気で大変なのはもちろんのこと、家族は家族で心配は尽きません。どうやって家に連れて帰ろうとか、経済的な問題とか、その子の将来をどう支えるかとか、いろんなところで悩まないといけない。
ぼくも怪我をした当時はアパートの2階に住んでいて、階段を上がらないといけないので、その家には絶対帰れなかったんですよ。結局、親が60歳にしてローンを組み直して、バリアフリーの家を新たに用意してくれました。ほんとうに感謝しているんですけど、同時に障がいを持つことで直面する現実の難しさも痛感しました。
駒沢を飛び出して、広がった世界
リハビリのためにアメリカへ渡られたんですよね。
【杉田】当時、慶応義塾大学ラグビー部のOBが「杉田くんの怪我をどうにかサポートしよう」と、杉田基金を立ち上げてくれたんです。リハビリするにはアメリカがいいと教えてもらって、渡米しました。初めての海外がリハビリ(笑)。サンディエゴの施設に行ったんですけど、軍人が多いからか銃や地雷で片足を失くした人や脊髄損傷の人も少なからずいると聞き、驚いたのをよく覚えています。

だからか、障がいのある人たちが生きやすい文化があって、制度も整っているんです。「もう一度サーフィンをやりたいんだ」とか、「歩行器でもいいからクラブに行きたいんだ」というモチベーションをもとに励んでる人が結構いて。みんながやりたいことのために努力する、前向きなスタンスに感銘を受けました。ぼくは車椅子で行ったんですけど、カフェに入ると「何を手伝ったらいい?」ってみんな気さくに声をかけてくれる環境で、出掛けることがストレスじゃなかったんです。

素晴らしいですね。
【杉田】でも、言語の壁はめちゃくちゃ感じて。歩けないことよりも言語の方が壁だと思いました。怪我は治らないかもしれないけど、英語はきっと勉強したらできるはずだと、外資系の会社を目指す理由になりました。なので、サンディエゴでのリハビリは、自分の中の世界観が変わったできごとでした。ずっと駒沢にいればいいと思ってたんですけど、初めての海外で世界の広さを知りました。
復学をしてラグビー部に戻られたということですが、一番印象に残ってる思い出はありますか?
【杉田】慶応のラグビー部にとって、特別なのは早慶戦なんです。早稲田は非常に強いんですけど、2010年のぼくらの代は早稲田に勝てた。4年生で復学し、ラクビー部には、選手じゃなくスタッフという立場で戻りました。何かみんなに貢献したいと思って、モチベーションムービーをこっそり作ったんですね。
すごい行動力ですね。
【杉田】動画を作るために、離れてた2年間を含めて、仲間のプレーを洗いざらい全部見直したんです。「みんなこんなラグビーしてたんだ」って改めて知りながら、試合に出るメンバーのいいプレーを切り出して編集しました。そこに試合に出られない自分も含めたメンバーの寄せ書きも入れました。試合前にみんなが自分のいいプレイを見て、「よし!!」とモチベーションを上げてくれたらいいなと。
自己満足かもしれませんが、早慶戦に見事勝つことができたのは、本当に嬉しかったです。
*

周りのサポートも受けながら、自分のできることを一歩ずつ進めていった杉田さん。今度は彼が、支える側にまわるようになります。<後編に続く>
杉田 秀之(すぎた ひでゆき)
駒沢で生まれ育ち38年。慶應義塾大学在学中、ラグビー部の試合中の事故で脊髄を損傷し車椅子生活となる。卒業後はゴールドマン・サックス証券、グーグル合同会社にてキャリアを積む。2024年、障がい当事者の視点を活かし「誰もが行きたい場所に行ける社会」を目指すNPO法人パラベンチャーズを設立。
ラグビー部の仲間100人と共に車椅子で達成した富士山登頂は『奇跡体験!アンビリバボー』で放送され、大きな反響を呼んだ。現在はNPO活動に加え、実兄と共にリフォーム会社「株式会社ニッセイ」を駒沢にて経営。住宅改修を通じ、誰もが自分らしく暮らせる住環境づくりにも尽力している。
『今日の駒沢』編集部
駒沢エリアの情報を発信するウェブマガジンの編集部です。駒沢大学駅に隣接した商業ビルの運営・施設管理・テナントへの賃貸業務を26年、株式会社イマックスが、駒沢エリアに住む人、働く人、活動する人…とたくさんの市民の方々と一緒に運営しています。「駒沢こもれびプロジェクト」を通じて、駒沢エリアに関わるすべての方々に役立つ情報を発信しています。
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