だから、だからだと思うんだけど、私は、できるだけ自分を出さないってことをしてきた
- 話し手
- 70代男性
- 聞き手
- 林 賢
奥沢にはどれくらい住まれていましたか?
1997年から18年間住んでいましたね。1995年1月に、関西は阪神淡路大震災に見舞われました。当時、会長だった父が今後直面する危機に備えて、会社の主要機能の分散化を決断しました。私が創業家メンバーであるため、東京への異動指示は早かったですね。地震の直後でした。
危機管理対策の一環だったのですね。
そう、危機管理ですね。あの震災は1月17日だったでしょ。父の指示は絶対だから。
5月のGWの前には、もう、阪急電車の沿線の桜を見ながら新大阪駅に向かっていました。
東京の住まいが決まるまでの間は、単身でウィクリーマンションのようなところに引っ越してましたね。
当初は東京への単身赴任を考えていたのですが、会長から「家族もみんな一緒に行かないと、東京の得意先や社員は、どうせすぐ大阪に帰るだろうと思ってなかなか信用してもらえないぞ」と助言がありました。
子どもの学期の途中だったので、転校先を探しに探してようやく決めましたが、その間は白金のホテルに炊飯器を持ち込んで、しばらく家族で住んでいたんですよ。そうこうしているうちに姉夫婦の白金の自宅のそばに空き家があって、そこをしばらく借りることになったんです。
家の土地探しは最初、多摩川を超えたところも探していたんだけど、やっぱり品川にある会社のことも考えて、なにがあっても歩いていける場所っていうことで奥沢に決めました。そして設計を頼んで、新築するのに2年程かかってしまい、結局、引っ越したのは1997年でした。
子ども達の学校探しも大変だった。同じ頃に妻が骨折してしまって。車いす生活がだいぶ続いた。買い物やらなんやらで車いすを押してスーパーマーケットへ行ったりしてけっこうたいへんだったという思い出がありますね。
たいへんな時期を過ごされていたんですね。
たまたま縁あって求めた土地が自由ヶ丘の駅と奥沢駅のちょうど中間ぐらいで、どっちの駅にも歩いて5分かかるか、かからへんかぐらいだったけど、あそこは住みたい町というか、実際住みやすかったね。交通の便も良かったね。ただあそこ、線路3本に挟まれているところなんですよ。便利なところやけれども踏み切りがたくさんある町で(笑)。なかなかこれは不便と言えば、不便なところでね(笑)。
私が行く散髪屋さんなんて、大蛇祭の間はお店を休みにしてたから
散歩とかされましたか? そんな時間はなかったですか?
ワンちゃんがいたけど。犬を連れての散歩は私一人で行っていたから家族で行くことはなかったなぁ。
なんだろうな。うん~。
ごくごく平凡に普通に暮らしていたという感じだね。そういえば奥沢っていうとちょうどね。そう、神社があるんですよ。「奥沢神社」。うちのすぐ近くで、うちの並びみたいなところだったけど、初詣のときに参拝の人で列ができるやないですか。その列はうちの前まで続くぐらいでね。
そんなに。
「奥沢神社」のあの辺は、昔は田園地帯で、お祭りって言うたら、みんな収穫祭としてやるもので、9月にやる夏祭で、祀られているのはダイジャなんです。昔からダイジャ祭って言って、有名なんですよ。
ダイジャー?!
「大蛇祭」って例大祭なんだけど。その時期になるとニュースでも流れたりしたけど、藁で編んだ大蛇が入口の鳥居に巻き付けてあったんだけど。毎年、祭りのときには大蛇を新しくして厄除けの「大蛇お練り」があり、賑やかなお祭りでしたね。
境内は狭いのですが、けっこうみんな盛り上がっていました。古い町だから私が行く散髪屋さんなんて、「大蛇祭」の間はお店を休みにしてたから、もう町をあげてのお祭りですね。やっぱり古い慣習が残っていて良い町だったね。

奥沢から会社まで歩けましたか?
歩ける距離というのは大事な要素でしたね。会社までは歩いて1時間45分程度はかかりました。もちろん早足で歩けば、もうちょっと早く着くのだろうけど。
東京の地震もいろいろ噂もされていたし、会長は「なにがあっても会社に行けるエリアでないといかん」というんでね。ここならなんとか歩けたんです。
それもあって奥沢を選ばれたのですね。
そうですね。いまでこそね、ある程度「ナビ」なしで走れるようになったけど、位置関係とかがわからないと、いざというときに運転できない。
そんなことでは、どうしようもないなと思っていたので、東京に来てからは、奥沢から会社までけっこう歩いて行ったり、自分で車も運転して通勤していましたね。
趣味はありますか?
特段の趣味はないね(笑)。父が言っていたのは「いちばん好きなことやるのが趣味やとすれば、わしは仕事が趣味や」と。私も、趣味と言えるほどのものはなにもないですけどねぇ。町歩きはよくしましたね。とくに東京に来て食べるものは美味しいから。とくに私は蕎麦好きなので、いまだとスマホで片手になるのでしょうけど、当時はポケット地図でしたね。
楽しいやないですか。知らんところを歩くのは楽しいしね。
ひとつ間違えたら会社は潰れていたかもわからへんところを、すごくいい形でバトンを渡せたよね
地図片手に歩いて蕎麦食べて、帰りは電車乗って帰ってくるとか。そんなことはやっていましたねぇ。あれは趣味とは言わんやろうけども。けっこう、東京に来た頃は地理がいまひとつわからないので、そんなことをやっていましたね。
蕎麦屋の特集本は、いくらでもありますからね。今度ここはどうかなぁ、ここへ行ってみようかなぁ、とか思案して。蕎麦屋が遠くても、行くのはもう電車で行ってしまうとすぐなので、遠いところやったら途中まで電車で行って、あとは出来るだけ歩いて行くようにしていましたね。巣鴨から上野まで歩いて美味しい蕎麦屋へいくとか、奥沢から荻窪まで歩いていって蕎麦を食うとかも。
仕事と生活って切り離せないですね。その後、仕事のほうではどうでしたか?
90年代後半って、失われた20年と言われる時代が続きましたよね。
その頃、ちょうど前々社長の叔父が、出張先で突然に亡くなられ、1989年には、あとを受けて兄が社長に就任し、それと同時にバブルがはじけていく。
私がちょうど役員にならせていただいたのが同じタイミングで、最初は情報システム担当でしたが、東京へ来てからは、だんだんと営業の仕事に移ってきましたね。
最近、兄とする話ですが、このごろの会社の業績はなかなか好調じゃないですか。
そうですね。
次にバトンを受けた現社長(甥)がよく頑張って会社を成長軌道に乗せ、いまは新たな局面に入りつつあるという姿を見ていて、私らの時代は会社を成長させることはできなかったけれど。
なんていうのかな、ひとつ間違えたら会社は潰れていたかもわからへんところを、すごくいい形でバトンを渡せたよね、と話していたりもした。
はい。
物流や情報システムが大きく変わり、それに伴って通販やネットビジネスが台頭してきて、流通3段階が音を立てて崩れていく中で、うちの会社がいちばんの強みとしていた卸売店の体制を、抜本的につくり変えていかなきゃならない。そんな時代だったわけですよね。単に景気が悪いっていうだけじゃなくて、いろんなことが変わっていく時代だった。
とりわけ、うちの会社が強みとしていた販売の組織やビジネスのあり方が大きく変わっていく時代を迎えて、これまでのやり方が成り立たなくなってくる時代の変革期でした。
はい。
そこの舵取りをひとつ間違っていたら会社は潰れていたかもわからないっていう、やっぱり、いま振り返ってみれば、なんか、そういう時代だったのかな。
ただ健全な形で、こうして会社の力をそんなに棄損(きそん)することなく、次の時代に託せたっていうのは、自画自賛だけど「褒められてええんちがうか~」とか「会社を成長させることは出来ひんかったけど、少しは会社に貢献できたかなぁ」と二人で話していたりもしました。
なんかすごく(嫌な)たいへんな、お仕事もされていたような気もしますが……….
流通の仕組みを変えていく仕事の中で、うちでは首を吊った人はいなかったけれども、他社さんの流通改革では、首吊った人が何人かいたっていう話をきいたからね。
やっぱり、卸売店に対する思い入れっていうのは半端じゃなかった。尋常じゃなかった
うちの卸売店網をつくり直していく過程では、命を落とす人はいなかったけれども、逆にカミソリを送ってきた人はいたんですよ。
私は、改革の折衝役に当たっていたわけで、矢面というか、全国に60からある卸売店にひとつひとつねぇ、現地まで行って話し込んでいきましたよ。
たいへんなことでしたね。
卸売店だけじゃなくて、銀行とも交渉・説得していく話をしなきゃいけないから。債権者は銀行とうちの会社ですから。銀行にも引導を渡さなきゃいけない。卸売店の借り入れっていうのは半端なく大きかったですから。
そういう時代の先頭に立って、されていたのですよね。
まぁ。ほんとに卸売店が事業の根幹でしたからねぇ。長年その体制に甘えてきたっていうのもある。うちの痛みを伴う構造改革をしなければならなかった部分そのもの。
つまり、卸売店の倉庫にさえモノを移しておけば、うちの売り上げが成り立ったわけですから、つくったものを100パーセント売り上げに変えることが出来るという、こんな仕組みをよく会長たちはつくったな~みたいなことでしたね。
たいへんな時代でしたか。
いや、まぁ逆にいい時代でしたよ。そういう売上のつくり方ができたわけですから。これは市場が拡大していっているときだったから良かったんですけど、卸売店の倉庫に積み上げられた商品は、卸売店の販売努力により、ほぼ全量が小売店や代理店に出荷することが出来た。
小売店はうちの仕入れを増やせば、それに連れて販売奨励金も増額する。だから奨励金も、そういう流通3段階が上手く機能していた。
別に間違ったことはしていないですよ。間違ったことはしてなくても拡大していく。他社メーカーはもう、まったく入る隙間を与えないという営業施策を取れたし、そういう戦略を取ることができた商品力や物流システムや、強力な信頼関係があったということです。
たまたま流通チャネル担当をやっていたっていうのもあったし、ずっと前からそういう役回りでした。ただね、この改革を実行していくには、誰がいちばんネックになるかって言うたら、会長(父)だったんですよ。
ああ。そうなんですね。
このような卸売店網をつくってきたのは会長ですから。会長は、もちろん流通3段階がこれからの時代、通用しなくなるという世の中の変化は、充分に理解されていたけれども。やっぱり卸売店に対する思い入れっていうのは半端じゃなかった。尋常じゃなかった。
社員なら皆が知っている血判状ですもんね………。
そうです。卸売店網をつくってきたのは血判状の世界ですからね。会長に「卸売店の体制をリセットしたい」と言うことを伝えて、腹を括ってもらうこと。これは他の人では出来ないだろうということで、そこはやっぱりちょっと大変な仕事でした………。
自分でつくったものは、自分の息子が壊すって言うから(笑)
改革の先頭を走ってこられたのですけど(会長の説得は)すごいことですね。
それは創業家の人間でないとできないことですね。会長の前に、卸売店の社長さん方が列をつくりますからねぇ。
「いまはこんなことをするのか!」ということで、尾山台の会長の家に行かれた卸売店の社長さんは事実、何人もおられましたけれども。そのとき、会長は一切会わなかった。
会わないように、社長とYHさんでされていたってことですか?
いいえ。会長が「会社でなら会うけれども、家で一人で会わんで!」と腹をくくってくださった。それで、なんとかこの改革を社長(兄)と私で押し進めることができたんです。
このことは、さっき社長(兄)や私の手柄やって自画自賛で言ったけれども、本当はやっぱり会長の手柄であって、いちばんの立役者は会長だったと、私は思っていますね。
自分で苦労してつくられたものを 自分で壊していくってことですよね。
自分でつくったものは、自分の息子が壊すって言うから(笑)。それでも私たちの改革案を受け入れられたっていうのは、会長の人間として器の大きいところ。経営者として素晴らしいところだったかなというふうに思いますね。
その流通大改革のお仕事が終わった後、次のお仕事はどうでしたか?
うん。20年前ぐらいかなぁ。この流通3段階の整備を進めると同時に、新しい流通の仕組みをつくっていかなきゃいけないので、メーカーであるうちがユーザーまで配送もするなんていう。そんなことはもう誰も夢にも考えてもいなかった。
それまで段ボールで卸売店にどんどん放り込んで、それを卸売店が小分けして届けてもらう。こういう流通3段階の物流やったものを、完全に自分の手で全部潰して、卸売店から大量の在庫を引き上げて、そしてユーザー(直の)配送体制に進めていく。
多くの新会社とシステム、そして機構のような体制を立ち上げていく。そうして新しいこの販売の仕組みを、どんどんと立ち上げては潰し、立ち上げては潰しでした。でも前に進めていかなきゃならない。
もちろん、これは私がすべて担当したわけではないですが、メーカーとしての新販売会社、新システムの参画に対しては、他のメーカーさんはすごく慎重になりはったんですね。そういうのを、要するに解きほぐしていかなきゃいけないので、そっちのほうもずいぶん仕事としては関わりましたよ。
だから最初はなにをやったかっていうと、メーカーによる「〇〇共配」っていう機構を立ち上げたんです。ここでは先の商流には入らないとして、ただし「カタログはつくるので、ぜひ皆さんそのカタログには提供する商品を出品してほしい」ということを言い、決済はもうそれぞれでやってもらったら結構ですから、物流だけは一本化しないといかんので、ということで物流から推進していったんです。
他メーカーとの交渉だとか、いろんなことをずいぶんやりましたよ。あれも東京に来てからの仕事やったなぁ。
だから、会社って脆いもんやって思っていたんでしょう。きっと
それもやっぱり、全面にYHさんが。
最初のときね。「〇〇ネット」の立ち上げのときも、私が初代会長でした。さいわい東京に来ていろんな会合で、他メーカーのトップの方と親しくお付き合いをさせていただき、それなりに信頼をいただいて来たということもあると思うのです。
私がその機構の会長をするのなら、そういう言い方ではなかったかもしれんけれども、「〇〇ネットとの取引をやりましょう」と言ってくださったメーカーさんは何社もありました。
それはYHさんの人格というか。人間的な魅力からだと思いますね。
一緒にお酒飲んで暴れていたからかな(笑)。
私はどっちかと言ったら自分を殺しすぎるところがあって、あんまり自分を出さないっていうのは、ある意味、それはいい部分でもあり、なんていうのかな、もうちょっと厚かましく生きてもよかったかなぁ。
兄弟でずっと会社を経営してきたから。父がいちばん心配していたのは、「兄弟で同じ仕事するっていうのはすごく難しいよ」って言っていて。父と叔父が、そう、兄弟でしたからね。ずっと上手く経営をされて来たやないですか。
でもやっぱりものすごく、人の見えないところで苦労をされていたのですね。そうなので「経営を兄弟でやっていくことは、たいへん難しいことだということを、君はようわかっときなさいね!」って常日頃から言われてきたんです。
それで、「言い方が悪いけど、会社を潰すのは兄弟やで」とか「外から潰されるようなことってまずないけど、兄弟が違(たが)えるとか派閥をつくるとか、そんなことになっていったらもう会社っていうのは潰れる道を歩み出すよ」と、こんなふうなことをよく言っていましたね。
だから、だから、だからだと思うんだけど、私は、できるだけ自分を出さないってことをしてきたっていうのは、そういうことがあるのかもしれない。
お互いに、こう、どんどん自分たちでギャーギャーやりだしたら、それこそ会長(父)が心配されていたようなことにもならないとも限らんし。
骨肉の争いなんていっぱいありますもんね。
枚挙にいとまがないぐらいですよね。兄弟で揉めて会社がおかしくなっていったってこと多いよね。だから会社って脆いもんやって思っていたんでしょう。きっと。
(会長の著書に)たしか「企業として、社会から人や、物や、お金をお預かりして事業をする以上はちゃんと収益を上げて、会社を成長させていくという努力するのは、これは当然のことやけども、だからといってそれが目標やとは思わない。
やっぱり最後は人と人との繋がり、そしてその信頼関係をつくっていくことによって豊かな人生を築いていく。これが本当に大事なことやというふうに思うよ」って書かれていました。
はい。
やっぱり人と人との繋がり。そして、正しく仕事をしていくことによって、初めて信頼関係っていうのができてくるんだよね。
生活史を聞いて:ミニインタビュー
林 賢さん
生きている時間は長いと思うので、いろいろやっていきたいな
大手上場企業の経営の一角を担う、創業家の人で。私は同期入社で、若いときは一緒に遊びに行ったり。
定年から10年。当時彼がしていることを社員として知ってはいたけど、本人から聞いたことはなくて。上司だった時期もあり、親しくさせてもらっていたけど、プライベートは聞かないようにしていた。
今回「自分を殺して生きてきた」みたいな本音の話が聞けて。やっぱりそうなんだと。
でもそこに、彼なりの人格形成や、いまの幸せができているのがよくわかって。嬉しかった。上司と部下の関係だけではもったいないなと思っていたんです。
原稿では外してあるけど、私の話も相当聞いてもらいました。「いまはこんなことしてるんですよ」「あー、そうなんだ」って。
嬉しい時間だった。
同期会で会っても、独り占めできないわけですよ。人気者ですよね。性格もいいし話もうまいし。その彼にいろいろ聞きたいことが聞けるのは、初めての経験で。
人の話をよく聞ける人ほど、人格的によくできた人だと思うけど、あらためて力のある人だなと。こっちの話も自然に引き出してくれるんですよね。なかなか追いつけないなって。
役員の方はハイソサエティで、たぶん生活感覚や、食べるもの、見るもの、会う人、みんな違う。でもそれは我々が勝手に思っているだけで、むこうはそんなに壁をつくりたくないはずだ、というのはわかっているけどこっちがつくっている。
みんなの中の一人というのと、1対1でお話できるというのは違いますね。
(生活史の原稿は)予想外に時間かかる(笑)。 もっと簡単だと思っていました。
林さんには、彼と久しぶりに連絡を取って話を聞くことがメインイベントで、「書く」ことにはそれほど重きがなかった。
いや、いい勉強になりました。人が目にする文章で、かつ話し手に迷惑をかけたくないと思うと、やっぱり何回も読み直す。本人も思い出しながら話すので、同じ話をくり返していたり。
話し手の波というか骨というか。話しながら、行ったり来たりして追いかけているのが、より鮮明にわかってきた。
文章は本業ではないけど書き残しておきたい意欲はある。数年前から始めた地域活動のことや。
まだ先は長い。生きている時間は長いと思うので、いろいろやっていきたいな。
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