第26話

仕事してるとき、自分の子どものこと思い出したことってないんです(笑)

話し手
50代女性
聞き手
浅利雅士

 貧しい家で、母は、裕福な家庭からお嫁に来て苦労したからか、私がちっちゃいときから言っていたのが「もし結婚して、女が一人になったときにでも、子どもを育てられるようになにか職を手につけなさい」ってことでした。僻地で働き口を探すのも大変だからっていうのもあったんですけどね。それをずっと聞いて育ちました。

 それで、ちっちゃいときに、父から教育テレビしか見せてもらったことがなくて、その頃、教育番組に、お話お姉さんの番組があったんですよ。

ほう。

 で、お話お姉さんが、すごく上手にお話と、本の読み聞かせをしてくれるコーナーがあって、声が綺麗で…。あんなふうになりたいなと思ったのがきっかけで保母さんになりたいと思ったんです。

 高校に入り、進学どうするかってときに、父も母も一生懸命働いていたけれど大学進学の余裕がなかったので「じゃあ働きながら学校に通おう」って決めて担任の先生に相談しました。その当時…群馬の富岡製糸工場に似たのが愛知県にあったんです。

はい。

 で、そこに就職しつつ、夜間もある短大があったので、そこに入ることが決まって。で、2交代制で働いて、授業を受けて。そんなことをしながら3年で卒業したんです。

 そしたら父にね、「新潟帰ってきても就職先がないから東京行け」って言われて。「新潟に帰ろうと思ってたのになんで東京なのかな」って思ったけれど、あんまり父に歯向かうこともできないから、東京来たんですよ。

 で、東京来たら、板橋の方の保育園に就職して、で、なぜか東京の人と結婚することになって(笑)。

なぜか(笑)。

 主人の仕事の関係で埼玉に行って、それで、子どもが2人、下の子が3歳ぐらいのときかな、「世田谷区の方に引っ越すぞ」って言われて、そこから始まりですね。

 本当は保育士をやるつもりはなくて、世田谷に来たんだから、もっと違う仕事に就こうかと思ったんですね。でも、とりあえずちょっと就職してみようと思って、色々と電話で保育園を探して。でも保育士になろうと思わなかったから、給食のおばちゃんで働き始めたんです。そこで働いてたときに「正規になる」っていう話をいただいて、うーん、まぁこれも運命の波だなって。この波に乗ってみようかなと思って正規になったのがきっかけでいまに至ります。

へええ。

 そうなんですよ。だから、人生波に乗るっていうのもあるのかなって思う。ほほほほほほ(笑)。わかんないけど、あまり逆らわずに(笑)。

反抗はしたけどね、裏で。裏で色々と、内緒で。いま言えないですけどね(笑)

そうなんですね(笑)。ところで、お父さんは色々とお話してくださるタイプの方だったんですね。

 いや、もう、父はね、ものすごい頭のいい人で、それこそ、村が僻地で、本当に働く場所がなかったんです。働くって言ったら、農業とか、あと若い人たちは土木会社とか、あと役場とかね、まぁ決まったようなところしかなくって。父が村の人たちの為になんとかしなくてはと考えて、父の知り合いの方が持ってる畑の一角に温泉の源泉が出るところがあったんですね。

 そこで父がその知り合いに「もし役場に掛け合ってボーリングしてもいいよってことになったら、温泉場をつくるっていう企画に協力してくれるか」って説得して、役場に懸命に掛け合ったんです。当時の役場が予算を立て、10年かけて温泉場が完成したんです。いい温泉が出て、いまでも結構賑わってますけど。うん、山奥ですがすごくいい温泉なんですよ。

そうなんですね。

 そうそうそう、そんな父の元に育ったわけで。母も、村の人たちのために一生懸命働く人だから、なんかそういう両親なので反抗っていうのはできないわけです。反抗はしたけどね、裏で。裏で色々と、内緒で。いま言えないですけどね(笑)。反抗はしました。色々しました。

(笑)

 だけど、両親の前では絶対そういう姿は見せないっていうのが、うん、なんていうか、長女の性(さが)っていうんですかね。ええ、だから弟はなんか、「姉ちゃんずるい」って言ってました。やっぱり尊敬する人はって聞かれたら、いまはもう亡くなった父だし、まだ元気でいる母ですね。

 近いうち新潟へ帰り、畑で野菜をつくっている母の元、小作のように私がこう動き回れば、やっと親孝行ができるんじゃないかなっていう風に思っています。いま、将来の夢のひとつがそれなんですけどね。農家を手伝うっていう夢があって。

新潟の。

 そうそう、自分の孫が東京に、すぐ近くにいるんだけど。孫の世話とかって、ほんとはすればいいんだけどね、それ以上に自分の実家がどうなっていくのかが気になるから(笑)。そこですね、いちばん。

 世田谷の、いま住んでる場所がどうとかよりも、私は育った土地への思いが強いですね。人によっては大人になって住んだところがね、自分の思い出の場所になるかもしれないし、人それぞれですよね。

うんうんうん。

かけがえのないっていうか、責任重大な仕事をさせてもらっている、という自負はありました

 でも、世田谷は、なんて言うんですかね、のどかなところっていう部分では、なんか似てるなぁと思います。ほっとできるっていうんですかね。ガヤガヤっていうのがないっていうんですか。ほっとできるっていう場所だなっていうのは、こうなんていうんだろう…、似てますね。砧公園、馬事公苑や駒沢公園は木や花や自然もまだ残ってるし。そうそう。

いらした頃は、もっと緑豊かでしたか。

 ええ、緑豊かでしたね。こんなこと言ったら申し訳ないけれど、埼玉からこっち越してきたときに、「世田谷の三軒茶屋って、もんのすごい都会なんだろうな」って思って駅を降りたら、なんて言うんですか、昔のなんか、うちのふるさとの街みたいな感じのところだったから。「えー、三軒茶屋ってこういうところなんだ!」と思って。

 世田谷のイメージがね、ちょっとね、崩れたことがあったんですよ(笑)。だから逆に、すんなり馴染めたのかなっていう、感じはありますよね。

世田谷に来られたのは、どれくらい、30年ぐらい前?

 そうそう、息子がね、3歳のときだから、いま、32年前ぐらいですね。

息子さんは、じゃあ、ずっと世田谷で。

 あ、そうですね。保育園、小学校、中学校と全部ここで、高校は他のとこ行って、っていう。娘も小学校4年で転校して世田谷小学校、中学校と行って。埼玉にも何年間かいたけれども、やっぱりここが地元って言います。

 いまだに娘は世田谷の私のすぐそばに嫁いだから、近くなんですけどね、息子はね、息子はよくわかんない(笑)。

よくわかんない(笑)。

 よくわかんない(笑)。ふっふっふっふ(笑)、たまに帰ってくる。

帰ってはいらっしゃるんですね。

 帰って、帰ってはきます(笑)。

 …そうですね、私は、保育士だった頃、いろんな失敗もして、お子さんたちに申し訳ないなと思うこともたくさんありました。でもこの日本や世界をこれから支えていくような、各ご家庭の大事なお子さんを保育させていただくっていう仕事は、かけがえのないっていうか、責任重大な仕事をさせてもらっている、という自負はありましたね。

 だから、仕事をしてるときとかっていうのは、一切、家のこととかって、私、すごい薄情なのかもしれないんですけど、子どもたちがちっちゃいときも、ほんとに仕事してるとき、子どものこと、思い出したことってないんです、ふっふっふっふ(笑)。

 なんかあればね、電話かかってくるだろうしってね。もう子どもたちにしたらかなりひどい母親で育てたんだけど、もう本当、口に出しては言えないですが…。

かなり保育士の仕事に集中されていたんですね。

あ、手伝いに行くって感じじゃない、仕事しに行くって感じ

 そうですね。うん、だから娘はね、私があまり仕事の方にばっかり向いてるから、ものすごい寂しい思いを、保育園のときも、小学校、中学校のときもずっとしてたって、二十歳になってからこぼしてましたよ。

それぐらいになってから、やっと。

 「そういう気持ちわかってた!?」って、すっごく怒られて。ふっふっふっふ(笑)。怒られちゃった(笑)。

 そう、あたしも、ほんと、それこそ仕事に没頭してたから、夜も遅くなっちゃうしね。そうすると、子どもたちは友だちのお父さんお母さんに「おい、ご飯食べに行くか」って連れてってもらったりして。うちの娘と息子は人様の手で育ってるんです、ほっほっほっほ(笑)、ほーんとにもう。主人はもう、家事だとか、家のことはほとんどしない。昔の人ってそうなのかわかんないけどね。だから、人様の手で育ったんだよって、子ども2人にはずっと言ってます。本当にありがたかったねって。

 おじいちゃん、おばあちゃんが遠くて、手伝ってもらえない環境ってあるじゃないですか。そういう方は、ワンオペだとかってなってしまうと本当精神的に苦しいですから。いまのお父さん、お母さんたちは、仲良くなった方と協力し合って助けあっていますね。人と繋がることは簡単ではないけれど、大切なことだと思います。

そうですね。

 友だちでも誰でもあれなんだけれども、ちょっと、手伝ってくれるだとかね。息抜きができる、なんでも話せるような人がいるっていうのは、生きていくうちには大事ですよね、と思いますね。だから、結局人なんだなと思って。結局、人が助け合ってこう生きていかなきゃいけないから…。

 で、私のこれからは、新潟の方の実家にもときどき行ったり来たりして、ちょっと温泉のことでも手伝ったりとかが夢ですね。

本当、新潟は存在として大きいんですね。

 おっきいですね。だから、皆さん休みがちょっとあれば、温泉いこうかとかそういうのってあるじゃないですか。私は、ちょっと休みがあれば新潟に帰ろうと思う。

 だから子どもたち連れて、もう新潟帰るよって言って、田んぼの田植えから稲刈りから、あとジャガイモ掘りだのさつまいもだのと、いっぱいあるんですよ、仕事が。それを手伝わせるんですよ。そんなだから、うちの息子は田植えできますよ。

毎年行ってらっしゃったんですか。

 そう、ずっと行ってて。子どもたちが高校とかになると、自分の時間っていうのが必要になってくるじゃないですか。そうなったら行かないときもあったけれども、だいぶ大きくなるまで、息子は高校生ぐらいまで手伝ってましたよね。おじいちゃんを手伝って。

じゃ、結構わーって、仕事して、で、新潟行ってと。

 そうなんですよ、新潟行ったとしても、遊びに帰るっていう風な感覚じゃないですよね。手伝いに行く。あ、手伝いに行くって感じじゃない、仕事しに行くって感じ。

土とか、匂いとかね、草の香りだとか、いろんな匂いがするから

 でも、別にそれが嫌じゃなくて生きるパワーをもらえるんです。うーん……親の存在が大きかったのかもしれないし。いちばんはそれかもしんないですね。

お母様はまだご健在で。

 そうですね。来年88歳か。父は92で亡くなったんですけど。

あれですね、結構長生きというか。

 そうですね、そう、母が、もうね、しっかり三度三度とご飯つくって食べさせてくれて。いや、だからね、ほんとに生きるためには食がね、どれだけ大事かっていうのはわかりますよね。

 でもね、本当、ここは畑があるじゃないですか、保育園。うまくつくってあげたいなって思いながらも、なかなかうまくいかなくて。でも子どもたちとは「苗植えるよー」「やるやる!」「やろうやろう!」なんて言いながら畑に行くんです。やっぱりそういう自然に触れられるっていう機会がね、少しでもあれば…っていう風に思いますよね。

 そういう体験ってとっても大事じゃないですか。カブトムシでもなんでも、こう、生きてるものを世話するのもそうだし、お散歩もそうだけれども、自然の中でどう感じるかっていうのは、やっぱり子どもたちにも体験してもらいたいなっていう風に思いますよね。

体験ですか。

 体験。やっぱりこう、土とか、匂いとかね、草の香りだとか、いろんな匂いがするから。子どもたちって、ほんとになんでも興味を示すじゃないですか。

はい。

 あれはね、本当にいいことだなと思います。花をそこらに活けても、「なんの花?」とかね、「なんかいい匂いがするね」とか「甘い香りがするね」とか…。やっぱり生活の中でみんなが感じることってたくさんあると思うんですけどね…。あとは、ほんとに、どんな人と出会うかっていうことが大事だから。

ちなみに、保育士さんになられてからのことをもう少し聞いてもいいですか。板橋が最初で、その後また埼玉に行って。

 2年ほど埼玉でも正規の保育士にはならなくて、非常勤みたいな形で働いてたんですよ。そうこうするうちに東京に来たから。それでいまの保育園の前身の保育園に入って。で、当時の園長先生っていうのが保育のことに関してはうるさく言わなくて、職員たちがやりたいなって思う仕事を、活動とか、やりたいことを全部やらせてくれてたんですね。

 で、私としてみれば、板橋の保育園っていうのは、まぁ園長先生がすごくどんと、男性の方でどんと構えてたから、もうひとつひとつなにをするにも、園長先生に意思決定を仰いでからやるって、子どもたちの活動も全部だったから。逆にこんな自由な保育園ってあるんだと思って、カルチャーショックでしたね、そのときは。

寂しかったって、ふっふっふっふ(笑)。どうしようもない、ほんと、家があるのにね

うんうん。

 でもあれですよね。よく保護者の方で見学に来られる、例えば「来年入園させたいから見学させてください」っていう方が、すごく子どもたちがのびのびとしてるから、「自由な保育園ですね」「自由に子どもたちはできていいですね」って言ってくださるんだけども、自由って、それ、そうじゃないんですよって言うんですよ。

 子どもたちも、保育園の中のルールっていうのがあって、そのルールの中でどうやったら自分たちがこう面白く、遊びを展開できるかとかを考えたりとかしているので。生活も、部屋の使い方さえちゃんと決めとけば、子どもは自分で行ってご飯を食べたいときに食べるし、昼寝の時間だなと思えば着替えて寝るし。

 だから、環境を整えてあげれば、子どもたちが自分で考えて行動できる。それこそ「自主的な保育」ってことなんだろうなって。子どもがどういうことがやりたいかっていうのを、職員たちがうまく聞き取って、それを実現できるような環境をどう整えていくかっていうことになるんでしょうけどね。うん。

いまのお話、すごく素敵だなって思いながら聞かせてもらいました。どうやってそういう考えに至ったんですか。

 それこそ私たち、私が若かりし頃って真逆の保育してたんですよ。

へえぇ、真逆ですか。

 はい。それこそ、子ども主体じゃなくて、大人主体の保育っていうんですか。大人が、例えば、「今日はこれで遊んでね」って、こんな大きな箱に入った、ブロックとか入った箱を2つぐらいこう持ってきて、「今日はこれで遊ぶよ」って大人が決めてたんですよ。子どもが選ぶんじゃなくて。

 で、もう散歩に行くのなら「帽子かぶった?」「靴下履いた?」とか、もうことごとく声かけて。で、声をかけるのが保育士の仕事だって、役割だって思い込んでて、そう言われて勉強して。

 だけど、当時の園長が「そういう保育っていうのは、真逆だよ。子どもが自分でやろうとするとかね、自分で話そうとするとか、子どもが自ら育つ力があるのに、大人がその上から止めたりするのは、保育じゃないよね」と皆に投げかけてくれて…。

 それが「あ、自分たちの保育を変えなきゃいけないんだ」っていうきっかけだったんですよね。みんなでね、語り合ったり。だから若いときは、家庭があるのに、夜の10時11時ぐらいまで喋ってて(笑)。そんなこともね、ずっとずっとやってたんですよ(笑)。

それでお子さんが寂しかったって。

 寂しかったって、ふっふっふっふ(笑)。どうしようもない、ほんと、家があるのにね(笑)。家もありますよ。ほんとほんと。旦那さんもいるけど。うん。でも、人生の何割が仕事なんだろうと思うぐらいです。いま思えば懐かしいです。

生活史を聞いて:ミニインタビュー                浅利雅士さん

「この話は誰のものだろう」というのが、わかんなくなってくる感じがあった

ご自身のお生まれは?

 僕は山梨県の南アルプス市。元々は白根町といいます。大学で東京に来て、就職して、5年だけ転勤したけど、ずっと東京ですね。

 すごく実家というか、お父さんお母さんとの繋がりが強い方なんだなって。長女であることを意識しながら生きてこられた感じがして。

 僕一人っ子なんですけど、そこまでの愛着というか、あたり前のように地元に戻っていく感じがないので、故郷に対する距離感も違う。責任を持つことを厭わないし、好きな方なんだなと。

ご関係は?

 娘も息子も通わせてもらった保育園の園長さん。お迎えで挨拶するくらいのかかわりで。卒園して半年経ったくらいのタイミングで。通っていたのは8年ぐらいになるから、長いですよね。

人として知っていても、生い立ちから聞く機会はないですよね。

 そうやって人の話を聞くのは面白いなとは、もうシンプルに思った。ゆっくり聞くことでこれだけの話が聞ける、とも実感して。

 でも一方原稿をやり取りする中で、「この話は誰のものだろう」というのが、わかんなくなってくる感じがあった。

 間違いなくその人のものなんですけど(笑)。

 何度も書き起こしを読んで、そこから自分の選択で削って、「これでどうですか?」と送ったものに「言い方をこう変えてくれ」という返事をもらったとき、「こんなにまとめたのにな」と。「いい感じになったのに」という気持ちが出たから、「これはなんか良くないな」って。

 すぐ直すと『これは自分のものなのに』という気持ちのままやるな、と思ったので、3週間ぐらい置いて。「これは僕の話ではない」「彼女の話」「所有権が俺にあるわけでもないし」。そんなことを思いながら。

葛藤があった。

 ちょっとありましたね。理屈では「別に自分のものではないよね」と思っているんだけど、直しが返ってくるとなんか壊されたような感じがしてしまう、という体験があって。それが強く印象に残った。

 でも冷ましてから、落ち着いてもう一回読んでみると、「いいじゃん」「これでよかったな」と素直に思える。

生活史の原稿は、誰のものなんだろうね。

 誰のものだろうな。一緒にやっている感じ、というか。歯切れの悪い回答になるんですけど。「100%話し手のもの」と言うには、私が入ってしまっているので。