…どっからか来てるのかな。常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね
- 話し手
- 聞き手
- 川島恵
…私が私になっているところって言うと。
私、市町村合併でみんな市になっていったけども、いまも町っていうね、小さい、すっごい小さいところで育ってるんです。それが嫌だったとかは一切ない、コンプレックスもぜんぜんなくて、その中で人生全てスタートしていた。
ただ、「長野県坂城(さかき)町の出身です」って言っても、誰もわからないから、
「隣が上田市なんです。だから、だいたい上田の方」みたいに言ってた。
だから、どうやって私になったかって言えば、そういう小さいところで育っていった人がいまここにいるよ、みたいな位置付けなんですけど。
聞かれるとどうしてもエピソード性の濃いことを喋っちゃうんだけれど、例えば、3歳4歳から中学3年生まで牛乳配達してたんです。
母親がすごい歴史が好きで、この話が正確かどうかはわからないんだけど、徳川家康が生まれたとき、乳母に「朝日を飲め、そうすると人間はおっきな存在になれるよ」と。母親は「じゃあ早起きさせよう」って。なにをしたかというと、社会的責任を持たせたらいいっていう発想をする人なんですよ。社会的責任っていうのは、ちゃんと労働だぞと言って、ある日、そんなに知り合いではないはずの牛乳屋さんにお願いに行くんです。どういう風にやり取りしたかわからないけど、「わかりました」って、私2件、兄2件だけ牛乳配達をする。
それはね、結構、私の人生の中では、かなり長く続けた、ことの一つ。
4歳から中学校3年生まで。
はい。牛乳配達やってると、ほんとにね、朝、誰もいないところを動くんです。農家の人とか、桃畑の人とか、マラソンしてるおじさんとか、名前は知らない人と出会ったり、誰々さんのおじいちゃんっていう人たちと、コミュニティができるわけです。そんな日々をね、送っていたな。
いちばん嫌だったのが、牛乳って昔は瓶なので、やっぱりね、アクシデントが起こるんですよ。そうすると、まず家に帰って言うわけです、「牛乳わっちゃった」って。車で牛乳屋さんに連れてってもらうんですね。「牛乳ね、割れちゃったから新しいのください」「ぜんぜんいいよいいよ」って新しいのをくれて。
それと同時に、森永の、おじいさんとおばあさんでやってる牛乳屋さんで、ブリックパックの、ジュース24セットをくれるわけです。私は割っちゃってすごい悲しい気持ちになってるのに、「いいよいいよ、よく来たね」って、牛乳と一緒にくれる。もう本当にそれは切なくって。
なんか、心が複雑だったな。
これは、私は働くためにいま練習してるんだ
あと、なんで私が中学3年生まで牛乳配達をしてたかっていうと、高校から、寮のある学校に行くことになるんです。
中学7クラスあって、まだまだ成績が張り出される時代で、成績上位者が墨の字でワサって貼り出される。
プライバシーなんてなにもない状態の中で、…なんて言ったらいいのかわかんないけど、高度成長期でね、いい学校に入って、就職して、とにかく勉強ができるっていうことが、自己肯定感みたいになってたんです。
で、絶対に上位に入りたいって、すごい勉強してた。
そんなにやるんだったら長野県じゃない学校に行ってもいいんじゃない、っていうのもあったんだろうけど、その中でも思想がちゃんとしてるところを選びながら、行きたい志望校があったんです。けれども、そこには不合格だった。うん、そう。そこから、私の…振り返ると、思い通りにならない人生…なんだけれども、そうじゃなかった方が結果的に良かったねみたいな…ことにも繋がってくんですけど。
…中学3年生、受験期になると月に2回ぐらい朝5時、そのときは新幹線がなかったので、特急あさまに乗って、お茶の水まで模試、講義を受けに行った。数ヶ月。母は、一回は一緒に行く、あとは自分一人で行く。「やるんだったら、自分でやってください」っていう。
同時に、母が…これも後から聞くんですけども、「こんなにずっと勉強ばっかり、テストの点数が評価の対象みたいな人生を送ってる、これは望む姿じゃないな」って思ってたんですって。
で、もう一つ、別に私は行っても行かなくてもいいと思っていた学校があって。「願書を出したら? こういう学校もあるよ」って。「そんなに言うんだったら、1分でも勉強の時間が惜しいから、言われた通りにやります」みたいな感じで、そのまま願書を出してた。
そこが、自由学園っていう学校で。
すごい極端な学校を2つ受けていて…、で、中3の終わり。自労自治っていうことを大事にする高校に進んだんです。それが小さな町を出ていくタイミングだった。
自由学園は、朝昼晩子どもたちが学校の給食も夜ご飯もつくり、寮の部屋ごとに子どもたちが全部する。寮母さんもいない、『生活即教育』っていう考え方で。
いままで全ての評価がテストの点、だったから、本当にぜんぜん違う環境に入ったわけです。
でも、そのときに「ここでは掃除とかサボる人いないんだ」みたいにね、思うんですよ。
中学も楽しかった。けど、「嫌なことはやらない人がいるんだな」っていうのは思っていたから、「全員がやった方がいいことをやるってすごいな」みたいに思った記憶はある。
ホームシックにもなりました。
だけど、なんだろう、どんなところでも負けられない戦いがどうしても始まっちゃって(笑)、
「ここで帰るわけにはいかない」って、やりきりたい気持ちが強くなっちゃって。
悩み、葛藤、問題にぶつかりながらも、過ごしてたかな。
私は、母がずっと学習塾をして、働いてたんです。
心のどっかで、お隣は働いてるけど4時5時に帰ってくる、お迎えに来る…みたいなのを、いいなって思ってた気持ちもあったんです。「私は、仕事はするけど、専業主婦になろう」って、なんだかわからないけど思ってた。
ただ、その自由学園、料理、掃除、早寝早起き、全部やるわけですよ。生活に関連すること。
「私はこんなにスキルを身につけて、将来暇になるんじゃないか」「私、暇になったら困る」って。
ずっと働き続けるっていう選択肢はなかったけど、これは、私は働くためにいま練習してるんだって、なんか切り替えたわけですよ。
へぇー。
自労自治ってね、非常にわかりやすかった。掃除もご飯も自分たちでつくらないと誰もつくらない。それまで自分が考えてる自由とは違くて、自由の裏には責任があるっていう…その中で律せられて生きていくみたいな形なんですね。
全ての人が社会を良くする責任がある…良いことは必ずできる、っていう一つの思想が根付いているんです。良くする責任がある。どの社会であっても。
例えば、じゃあ、食事をつくらなければ食べられないっていうのもあるけれど、もう1歩先のことを運営していくことで、社会って良くなっていくんだなって、たぶん、実体験として実感してくんでしょうね。
だから、私の役割は次どこにあるんだろう、自分の社会的役割ってなんだろうって考えたと思う。それは、具体的に職業がなんとかっていう話ではなく、生きていく中でのことだったんじゃないかな。
…あの寮の、暗い寮の廊下の、あそこで、これを思った瞬間とかは覚えてるんですよ。
20代、それでもね、なぜかもっともっと仕事がしたいって思ってました
へぇー。
受け入れざるを得ないことも世の中にはいっぱいあると思うんです。仕方がないこととか、自分に与えられている条件とか。
で、まずはその中でこう、より良い道を探していくんだけれど…もうちょっと1歩出ると、その不条理とか理不尽を解決できる人に本当はなって行きたいなって、常々ある。
あんなに勉強してたのに、いちばん取らなかったら自分じゃないみたいな生活してたのに、一気に。
ぜんぜん成績がない学校に行ったんです。高校3年間、自分の成績知らない。
その後、大学に行ったりしながら、縁があって、すごく不況の超氷河期って言われるときに出版社に入って、月刊誌をつくるようになる。自分が培ってきた、生活するっていう…ライフスタイル誌…衣食住を中心とした、雑誌とか書籍とかをつくる編集者となっていく。
編集者って、なにもできない人。なにもできなくていい。
最初は一人前の顔して会社に入るんだけれども、先輩方にしてみたら、大学出たばっかりの人になにもさせられないし、なにもできない。本当にね、なにもできないんだなっていうことを突きつけられるんです。
でも、できることをやりたいっていう派なので(笑)、過去に培った掃除のスキルとか。
「やれることありますか。やれることありますか。なにか私がやれることありますか」って「うるさい」「家に手紙でも書いてなさい」って言われるぐらい。
それは愛情たっぷりなんですけれども。
片っ端から編集室中の引き出しを片付けまくって、たまに「綺麗になったね」って言ってくれる人もいるけど、ときには「あんたが片付けすぎて、どこになにが行ったかわからない」って言われて。でも「もうあれどこに行ったかわかんないから持ってきて」みたいに言ってもらえて、自分で「よっしゃ」って感じ。私に仕事ができた。
勉強したことよりも、そうやって鍛えてきたことが、やっぱりいちばん役立ってるかなとは思います。
出版社の時代は「24時間働けますか」体制で。20代、それでもね、なぜかもっともっと仕事がしたいって思ってました。あれ、なんなんですかね。
…どっからか来てるのかな。常に負けられない戦いが始まっちゃってるんですよね。
中学までと高校のギャップがあったにせよ、ちゃんと繋がっていて。後になって、お母様が勉強ばっかりでいくのは…みたいな。
危険、って思ったそうなんです。
とにかく、体験を重視していた親だったんですね。裕福っていうことではなく、教育に時間とお金をかける判断をいつもする人だった。
自分でやる、やる場を与えられたら自分でやらないと。
助けてくれる大人はいっぱいいるけれども。牛乳配達…マラソンのおじさんといつも会うことで、安全確保されていたりとか。見守ってくれてたんだなって。よくわからなかったけど教えてくれる人がいたとか。

そうやって、流れて、たどり着いてるのかなと、思います。
どうしてやっていくといいのかなっていうことを考えながら、その工夫の仕方が、少し…だいぶ、違ってたかな。
例えば、兄が中学高校とグレてる感じになったわけです。
彼のお弁当を毎日つくって、お弁当を持って高校に行く、そこに、自分が伝えたいこととか、読んでほしいものとかがあったときに、…本をね、ビリって破いて、こう、毎日お弁当に入れてた。
へぇー…。
ときには推理小説、ときにはボクサーが苦しみながらも成長していく本。それを破いて毎日毎日入れてたって。実体験は豊かにしてほしいけど、それだけじゃやっぱり自分の実体験しかないからね。本を破るなんてって思う人もいるとは思うけれども、どんどん入れてたと。そしたらあるとき
「もういい加減全部入れてくれる」って言ったんですって。「先が知りたい」「変なところで止めるなよ」みたいな。
おそらく母はそのとき「あー、やってきてよかった」って思ったんだと思うんですよね。
別にそれで問題が解決したかっていうとそうじゃなく、なんですけど。面と向かって言うとかじゃなくって、ちょっと手段が変わっている人でした。
面白いけど、なかなかできることじゃないですね。
ね、どうなんでしょうね。
思っているけど見守るとか、口出ししないとか…っていうことも、あるんじゃないかな
うちはね、なぜか中学2年生のときに、一回外国に出すって。…でも、「予算って50万円なんですよ」って私に言うわけですよ。
中学生用のツアー、ホームステイも全部やってくれるとこのぐらいかかる。あなたが向こうで使えるお小遣いはこのぐらい。日本で準備のためスーツケース買ったりなになにしたりするためにはこのぐらい、と。
中学2年生にしてみたら、50万円って、ものすごくおっきく感じたわけですよ。東京、羽田に行って、交通費も全部ここから出さなきゃ、スーツケースはリサイクルショップの方がいいかもしれない、みたいな。
自由学園、出版社でも、本当に鍛えられた。負けられない反骨精神みたいなね。
私ね、創業100周年記念の特集を、20代で担当になったんですけど、過去の本、<ある人の1軒の家の持ち物って何点あるのか>って昔やってたんです。それ見たときに、すごいな、ちょっと尋常じゃないなと思ったわけです。で、「あれ、これ…やってみたい」って急に思っちゃったんです。
「いまの時代だったらどうなのかやってみたい」って言ったら、編集長及びその周辺の人たちが「ちょ、無理だ」と(笑)。「無理だって、これやったらもう大変なことになるから」
「えーでもやってみたいんです」って何度か言っていたら、「じゃ、まずそれができる家を探してこい」っていうことになった。
どうやって探すんだろうって、ありとあらゆるツテをたどって、100軒ぐらい歩いたんです。
100軒ぐらい、「すいません、お家見せてください。お家の中のもの数えてもいいですか」
「ダメですダメです」「いいよ」って言った家は、大豪邸すぎて、ちょっとこれは数えられないとか(笑)。
で、あるとき、出会ったんです。あ、できるかもしれない、っていうお家。
迷惑ですよね、いまになって思えば。子どもがいるお家で、家の中のもの全部出してくださいって、ちょっと病的だったなって思う。でも、それを受け入れてくれる人がいて、本当にいまでもね、交流がある、その人とね。
「編集者の資質ってなに?」ってもし聞かれたら、不確実なことに向き合えるかどうか、その力をちゃんと推進していかれるかっていう部分はすごく大きいなと思って。どうしても起承転結みたいなゴールを見据えて進んでいきやすいんだけれども、出会うことによって、新たな方向に進んでいく…深くなっていったり、広くなっていったりしていくな、と思って。私が教えてもらった人たちは、いつもこのわからなさの中を楽しんで…楽しんでたか苦しんでたかわからないけれども…漂う力がね、あった人たちだなって。
だいたい、本当にいちばん望んでいたものじゃないところに行き着くことがね、やっぱり多い。それでよかったのかなっていうのは、勝手に自分を納得させている以上に、こっちの道が用意されていたんだな、みたいに思える部分もあるんです。
…若い子たちを見て、頑張れるなー、頑張ってるなー、って思うと、「私がその中でできることってなんだろう」ってちょっと変わってきている、最近。それまではね、「自分がもっと成長していかなくちゃ」っていう方が強い部分もあった気もするんだけど。
ただね、本当の支援ってもしかして違くて、っていうのは、いま、思っていて。
思っているけど見守るとか、口出ししないとか…っていうことも、あるんじゃないかなって。
「なんか自分ができんじゃないか」って咄嗟の身体の反応として起こることがあるのに、見守るとかなにもしないことってちょっと逆な感じが。
その通り。身体では反応しちゃう。だけど、プロジェクトに関わっている人たちがやろうとしていることを見ていると、いま自分はダイレクトにそこじゃなくて、違う関わりをすることでそっちになにか発生することがある、っていう意図、を探す…必要もあるなって感じていて。
私、正直、そういう意味でのコミュニティをちゃんと育てるって、初めてだなと思っていて。
もちろん、出版社にいたときも、読者の人との関わりすごく厚い出版社だったから、読者はがき、ほんとに尋常じゃなく来たりして、それを丁寧に読んで、レスポンスし、お返事書いたりしてたんだけれども。でも、それって、顔が見えるほどの近さではないよね。全国にいるから。
もう少しコミュニティが小さくなったときに、人が自然発生的に次の行動が起こせるって、私がケアをしちゃうと、そっちにこう…人ってどうしても頼ったりとか助けてもらったりってことも起きるから…に慣れてもいけないし…。
でも、それは、私が単純に発見したとか気づいたっていうよりは、関わっている人たちに教えてもらってる感じがする。本当に。なぜか。
私は待ってないんです
…で、<ただ待つ>じゃない。待ちかた、があるなって思っていて。
待ちかたがわからないから、手を出しちゃう。手を出すのは、自分の待ちかたがわからないから応援しちゃうところもあって、待ちかたさえわかれば違う手立てを…手立てがない、手立てをしないわけじゃないんですよね。
優れた編集長の不確実性…って、いまの、その、待ちかたのことなのかな。
うんうん、その、不確実なこと、結果が見えていないから見えてない結果に対しても、前向きにリズムを踏んでいくっていうのは…まぁ、その人の培ってきた「必ずどっかに着地するよ」っていう、自信ではないけれど、信じるものの現れ、でも、答えは見えていないと。右に行くかもしれない、左に行くかもしれない。左はね、闇に入っていっちゃうかも。でもね、そういう人たちは闇に入ったらまた次の明かりを探せる、感じかなぁ…。
…次男が小学校低学年のときに「ママは待てない病気だからね」って言ったわけですよ。思わず笑ってしまってですね。
えー。
待てない病気…だから、待ってないの。さっきの待ちかたの話と矛盾するんだけれど、私は待ってないんです。待つのが嫌だから他の手立てを考える。
待ち合わせをして、相手が遅れるってわかったときに、じゃあそれを待とうと思うとしんどいじゃないですか。じゃあ私は私の時間を使おうと。私の時間は流れてるから、本屋に行くなり違うことに転換しようって考えるタイプだったなってそのとき思ったんですよ。
ただ、そうは言ってもね。我慢したり他のことで気をそらしながら、耐えてることもね、や、自分をかばうわけじゃないけど、あったなとは思うんです。
仕事でね、どうしても自分が願うような形にならないときも、やっぱりあったし。子供が思春期のときも、耐えなきゃいけないところがあって。親子の関係だったら、折れるのは親の方でしょって。
折れるっていうか、どっちも言い分を引き下がりたくないとき、「じゃあ、君が思う通りにやる方向でなにか考えよう」とか。
2人で言い張ってたらなにも始まらないから、折れるとしたら自分…親の方でしょっていうのは、なんか思っていて。
…しんどいことの塊だけどね、まだまだね。それはほんとに。なんかを悟ってるわけでもないし。
絶対そっち側に行かないですよね。
えー、なになに。
笑。悟ってるっぽい美談に行こうとするの、絶対乗らないですね。
ねー、そうじゃないんだ、そうじゃないんだよ〜。
みんなたぶん…、人生どうしようもないことって抱えてるんだと思うんだよね。自分も含めて。言葉にできないけど、抱えてるもの。そういうのをね、ほんとはオープンにした方がいいのかなと思うけど、語らないっていうことで、自分を保ってるっていう、部分もあるんだよね。明け透けにしすぎない…。 まだたぶん、自分は途上で…。もっと進んでいったときにね、もしかして、オープンにして、なにかやっていくことがあるのかなって思うけど…。
ちょっとね、脱線しちゃうんだけど。その、語らないことでコトを進ませて、違う状況をちゃんと育てていくみたいなことを…家族心理臨床っていうのをやっている人がいて。で、その考え方すごい私はフィットしてるんだけれども、家族心理臨床って、問題が問題なんじゃなくて、問題の解決方法が問題だっていう考え方なんですよ。
問題の解決方法が問題。
そう。例えば不登校って…昔より何倍、学校に馴染めない子たちってどんどん増えていると。
じゃあ、この現象はなんですかって辿ったところで、誰もすぐに解決できない。
…極端な話、その子のお父さんが昔やっていたサックスを吹く。それでも、玉突きみたいな形で、どこかに変化を起こすと、こっちが変わってくる可能性っていうのがある。良い方に行くかどうかはわからないけど、でも、なにかこの人に影響はあるよねって、ちょっと乱暴な言い方をすると、その考え方なんですよ。
その見立てみたいなこと、<境界・パワー・サブシステム>って言うんですけど。境界線の、境界。パワーは力。サブシステムって、関係性みたいな。
…親子、別にうちの母と兄はコミュニケーションが取れてなかったわけじゃないけど、本を破り捨てて、そこに入れるのも…違う、動きなんですよね。それを、どんな手立てが打てるかなっていつも、自分でも考えちゃう。
なるほど。
たまに来る手紙の方が嬉しいよって
中学3年生の男子が留学しましたと。ルンルンで留学したわけです。向こうに行ったら、LINEは既読スルーだし、こっちがなにを言えども、なんかよくわかんないし。「あなたは生きてるんですか。生きてないんですか」みたいなね。まぁそんなの思春期の男子、ぜんぜんあるんだけれども、私としては、ストレス。で、ダイレクトにこっちに返事しなさいとか言っても、もう返事しないし。ときどきぽろっとね、「お金を送ってくださいみたい」な(笑)。
そのときに、えーっと…私はね、毎週ハガキを書く。LINEだと読んでも、既読スルーだし。手紙は封筒に入れちゃうと読まないかもしれない。だからハガキにしたんです。もう、字が見える。
別にそこに「なんとかしなさい」って書くわけじゃなくて、「日本はいまこうこうですよ、兄弟はどうですよ、運動会がありました」とか、まぁとりあえず書いて、ポストに入れたと。
ポストに入れた瞬間、私、もう本当に心が晴れやかになったんですよ。
だから…こう、別に思春期の男子が親に報告してこないことが原因とか結果とかじゃなくって、私がそれを入れたことですごく心が晴れやかになったんですよ。自分が。
それでいいんだなっていう。
…そしてね、あるときね、帰ってきたんだけど、「あれってどう?」って言ったら、「あぁ、嬉しいよ」って言ったんですよ。
おおー…。
たまに来る手紙の方が嬉しいよって。ああ、そうなんだー、って。
すごい、そういう他の人の考え方とかに触れて、自分のいまを感じ直すっていうか、ね。でも、それ、説明すんの難しいですね。
あ、それでー、決してこう、美談にしないっていうのは、ほんとにどうしようもできない事象が、はびこってるっていうの、ちょっと感じていて。小さい頃から。
うちの母、相談されることが多い人だったんですよ、たぶんね。
あるとき近所に、東京から子が送られてきて、その子がね、不安だからって言って塾に来てた。わかんないけど親との関係があんまり良くなくって。うちそんなに大きな家じゃないし昔の家だから、洋間と居間っていう洋室と和室があって、それを閉めれば、向こうとこっちみたいなところ、その片方の部屋で、その男の子と保護者的な人が来て。
その男の子がね、「おばちゃんのうちの子にしてください」って。「そうじゃないと、自分は、東京に帰んなきゃいけないから」
で、それを聞きながら、「あの子がうちの子になるのかな」みたいな不思議な気持ちになってた、とかー。
大人になってみれば、そんなことはね、ちょっと難しいしできない。だから、その子はたぶんその後施設に行くんですけれども。
家庭が本当に成り立たないお家とか、貧しすぎてっていうお家もあったなって。そのときはわかんない、ぜんぜんわかんなかったけど、どうしようもできないところで暮らしてる人たちっていうのが…私の中のね、どこかにはあって…。
だから、みーんななにか抱えてるって、…いうのはね、すごい思うところなんですよ。
みんな苦労しながら生きている。
割とその中でも自分は元気に生きてるしー。…だったら、なんかね…その…。
なんか、…不条理をどうにかできる側に、ほんとはなりたいなっていうのはね、ある。
生活史を聞いて:ミニインタビュー 川島恵さん
視点が限られていると、どんどん分断しちゃう。でもそうじゃないやり方というか
立場が違う人や、意見が違う人とかかわる経験を、あまり持っていない人が多い。だから排除や分断が起きているけど、そういう世界にしてほしくない。(注:川島さんは中学校で美術の先生をされている)
そうじゃないやり方を、子どもたちが学ぶ場をつくるのが、すごい好きで。たとえばクラスの席替えについて「自分たちで決めていいよ」「けど誰一人嫌な思いしないようにして」と伝えて、やってもらうことがある。
そしたら子どもたち考えるんですよね。
自分勝手に「じゃあ俺たちここ」って座ってお喋り始める子もいれば、ずっと一人で立っている子、揉めてる子ども同士とか。みんなバラバラで、それをずっと見ている。
で、煮え切らない子が「先生」と言いに来て。「そうか」「どうする?」、「納得いきません」と。「そうだよな」「どうする?」というのを繰り返して。座ってる子たちに「こう言ってんだけど、どう?」と言ったら、「え」とかなって。
そこからだんだん、お互いを知り始める。私がルールとして伝えた「誰一人嫌な思いをしないように」がクリアできていないから、これは決定にならないねと。「もうちょっと頑張って」とやっていくと授業3時間ぐらい潰れるけど、結構面白くて。
それ一回やると変わるんですよ。
面白い。
視点が限られていると、どんどん分断しちゃう。でもそうじゃないやり方というか、そこを一回乗り越える経験をすると苦しまずに済む。意見が合わないことがあっても、一回話し合えていると「じゃあどうしようか」とできるようになる。
いい関係性や次の未来に向かって、「どうしてく?」って。
親や上の立場の人、先生と生徒でも、上の人が全部決めるのは楽。けど毎回同じ人が判断するので、一人ひとりの能力が育たない。「できるのにもったいないな」という気持ちがあって。
その話と生活史はつながる?
うん。気づきやすくなるんじゃないかな。こういう人もいる、こういう人もいる、ということを知ってほしい。
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