2025年12月21日、駒沢パーククォーターでアートフェスティバルが開催されます。表現者が集う市民参加型のこのイベントのディレクターは、安室奈美恵さんや倖田來未さんをはじめ、多くのトップアーティストの振付・演出を手がけてきた、ダンサー・振付家のRYON・RYON氏(野村涼子さん)。
「地域に貢献したい」「次世代の表現者を育てたい」。そんな強い思いを持って活動の幅を広げるRYON・RYON氏とは、どんな人物なのか。
前編となる今回は、その原点や価値観に迫ります。お話は、深沢にあるダンススタジオ「Studio WOO by R2」にて伺いました。

テレビの前にかじりついた子ども時代
ダンスに興味をもったきっかけから教えていただけますか
【RYON・RYON】ピンク・レディーさんのダンスに心を奪われたのが最初でした。いまでいう、プリキュアやKPOPのダンスに憧れる子どもと同じ。夢中になって真似していました。
もともと体を動かすことは好きだったんですか。
【RYON・RYON】父が日本体育大学を卒業した体育教師だったので、小さいころからスキーに連れていってもらったり、水泳をやらせてもらったりと日常的に身体を動かす環境があったんです。そのおかげか、運動神経もしぜんと鍛えられました。
ダンスを本格的に始めたきっかけは?
【RYON・RYON】40年ほど前のことですが、当時はマイケル・ジャクソンのブームが巻き起こっていました。スマホもインターネットもない、情報源はテレビだけという時代に、画面越しに見るマイケル・ジャクソンの圧倒的な表現力に衝撃を受けて「どうしてこんなに表現力がすごいんだろう」「どういうふうに表現したらいいんだろう」と考えるようになったんです。彼のようなダンスに憧れて、もっと高みを目指したいと、ニューヨークに渡りました。
私は同級生と比べても、見極める力が高かったと思います。「もっとこうなりたい」という願望がいつもあって、それを実現できる環境を探していました。
ただ当時は、アメリカで日本人が銃撃される事件が起こったり、親には「アメリカに行くの? 危ないよ?」と、言われました。それでも私は変わりたい一心で、そういう言葉すら気にせず突破しようとしました。既成概念を壊したいというか、自分が“いい”と思うものに対して貪欲に向かう、そういうタイプだったと思います。。
そういった価値観や考え方は、どうやって培われたんでしょうか?
【RYON・RYON】小さいころ、画家だった伯母に可愛がられていたんですが、その影響は少なからずあるかもしれません。着物をドレスにリメイクして着ているようなカッコいい人で、独創的なパッションを持っている人でした。あとは、身体を動かすだけでなく、子どものころから習字や絵を描くのが好きで、アート全般、ものづくりに惹かれていました。今も、こうした絵を描いているんです。

素敵! そういった表現活動全般が、ダンスにも繋がってそうですね。
【RYON・RYON】すべて一貫して繋がっていると感じます。書では古代の文字も書きますし、動画制作や歌うことなど、自分で表現して創作することがすごく好きなんです。なので私の「R2 CREATIVE」という会社名には、クリエイティブ全般への思いをこめています。
自分の表現をみつけようともがいたニューヨーク時代
ニューヨークに渡ってから、さらにダンスのレッスンを受ける日々が始まったのですね。
【RYON・RYON】アメリカに馴染もうとしながら、英語も喋れないままダンススタジオに通っていました。そのうち、表現において日本人らしい「奥ゆかしさ」の壁に、当たることになるんです。
レッスンでは先生から選抜された人が踊る時間があるんですけど、毎回選ばれずに悔しい思いばかりしていました。「変わりたい、自分の殻を破りたい」と思いながら通い続けていたある日、先生が私をピックアップしてくれてたんです。ダンスが始まる直前、隣にいたダンサーが、私を見ながら「踊ろうぜ」というように、手のひらをベロでベーっと舐めてウィンクしてきたんです。その瞬間に「こういうことをしていいんだ。なんでもやっていいんだ」と気づいて。そこから、自分の表現者としての殻が破られた気がしました。

その瞬間というのが、伝わってきます。コミュニケーションはどうとっていったんですか?
【RYON・RYON】歩いている時に、ふとショーウィンドウに映った自分の顔がぶすっとしていて、つまらなそうだったんです。「こんな顔をしていたら、友達なんてできるわけがない」と思って、それ以来なるべく笑顔で歩くようにしたんです。言葉が通じないからこそ、まずは笑顔でいることを意識していました。
楽しそうにしているだけなのに、次第にウインクしてくれる人や、話しかけてくれる人が増えていきました。当時はエスカレーターもなかったので、重い荷物を抱えて階段を上っていると、素敵なお兄さんが運んでくれたり。道に迷ってホテルに辿り着けない時に声をかけてくれる人が現れたり。異国の地で心細い思いをした時に助けられた経験をたくさんしたんです。
今もその時のことは忘れません。自分が受け取った恩をまた別の誰かに返そうと、私も渋谷で困っている外国人の方がいたら、声をかけて助けるようになりました。同列に、東日本大震災では石巻の支援に携わったり、児童養護施設の理事としても活動していたりと、社会貢献活動に取り組む上での根源のひとつにもなっていると思います。

スタジオ運営も、社会貢献の一つに近い気がします。
【RYON・RYON】芸能やアーティストの世界でトップを走る人たちは、自分の表現だけではなく、やがて社会貢献に辿り着くと思うんです。次世代の子どもたちを育てていくことは、自分が培って得てきたものを、社会に還元する行為のひとつなんですよね。

日本のクリエイティブの底上げを目指して
ニューヨークから日本に戻ったあとは、どのように活動を広げていったのでしょうか。
【RYON・RYON】1990年代初頭の日本の芸能界には、アメリカのエンターテイメントに匹敵するようなクリエイティブがまだありませんでした。私はマイケル・ジャクソンやジャネット・ジャクソンの振付師さんとも交流があったので、「かっこいいものを作りたい」という思いが、強かったんです。アメリカで受けた衝撃を日本のアーティストにも反映したいと考えていました。
それでダンサーと振付師の両輪で活動していたんですけど、自分で踊りながら振りを作ると、どうしても客観性を欠いてしまう。クオリティを上げるために、自分はステージの外に立って、先輩や後輩に踊ってもらうようになりました。気付けば、かなり早い段階で演出家のようなポジションに立ち始めたんです。
すごいですね。若い時期であれば、自分で踊って表現したい気持ちが強いのではという気がしますが。
【RYON・RYON】他に任せられる人もいなかったので、私がやるしかなかったんです。そうすると、ディレクションをする側の人たちとも直接話せるようになって得るものもとても大きいんです。でもやっぱり「私も踊りたい」という気持ちもあって、所属事務所の社長に相談したんです。そうしたら「君はどっちも選べるんだから、ステージに出たい時は出ればいい。好きなようにやりなよ」と言ってくれて。「そうか。私が責任者だから、好きな時に踊っていいんだ」と心が軽くなりました。その当時のトップの人たちは、私を信じて任せてくれたり、周りから守ってくれたりと、本当にお世話になりました。
創り出すものに、絶対的な信頼を置かれていたんでしょうね。
【RYON・RYON】芸能界の激動の中で、ひたすら真剣にやってきましたし、クリエイティブに関しての真面目さだけは、ずっと評価していただいてきた自負があります。寝れなくても絶対に文句は言わず、クオリティ管理をしていました。その結果、人に嫌われることがあっても、やり遂げるという意志を貫いてきました。もちろん嫌われたら、心の中では泣いてるんですよ(笑)。それでも、同じ志を持つ仲間と、信頼してくれる人がいる限り、やるしかないという気持ちでやっていました。結果として、すごくいいものができるんです。
前例がないなかで第一人者として、音楽業界でのクリエイティブを広げていったんですね。
【RYON・RYON】もちろん私一人ではありません。当時周りにいた仲間たちと一緒に創り上げていきました。ひたすら走っていました。

後編へと続きます。
RYON・RYON
東京都出身。幼少期からピアノとバレエを学び、帰国後 歌とダンスを本格的に習得。その後、ニューヨークやロサンゼルスで表現力を磨く。
安室奈美恵・倖田來未・モーニング娘。など多数アーティストの振付・演出を担当し、 テレビやライブなど幅広いエンターテインメントの現場で活躍。現在は 世田谷区深沢にてStudio WOO by R2 を主宰し子供から大人まで「自分らしく輝く力」を育てている。
2025年12月、駒沢にて“つながるエンタメ”をテーマに 駒沢パーククォーターにて第1回『駒沢アートフェスティバル』を主催。 地域とエンターテインメントを結ぶ新たな文化発信に取り組んでいる。
『今日の駒沢』編集部
駒沢エリアの情報を発信するウェブマガジンの編集部です。駒沢大学駅に隣接した商業ビルの運営・施設管理・テナントへの賃貸業務を26年、株式会社イマックスが、駒沢エリアに住む人、働く人、活動する人…とたくさんの市民の方々と一緒に運営しています。「駒沢こもれびプロジェクト」を通じて、駒沢エリアに関わるすべての方々に役立つ情報を発信しています。
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