駒沢で生まれ育ち、ハンディキャップを持つ人たちの世界を広げる支援する「NPO法人パラベンジャーズ」を立ち上げた杉田秀之さん。
大学卒業後は「平等に挑戦できる場所」を求めて外資系証券会社へ。そこで出会ったパートナーとの結婚や、部活メンバー100人での富士登山登頂、さらに「支えられる側」から「支える側」へと歩みを進めた杉田さんが、駒沢で思い描く未来についてお伺いしました。
平等に挑戦できる場所で出会った、仕事とパートナー
大学卒業後、ゴールドマン・サックスに入社した杉田さんですが、外資系の証券会社を選んだきっかけを教えてください。
【杉田】ぼくが就職活動をしていたころ、ちょうど障がい者雇用というのが一般的になったころでした。日本企業でも選考はあったのですが、仕事内容やその裁量に制限があって、自分自身では将来が開けないという感覚があったんです。
そんななか、当時のゴールドマン・サックスの人事から「あなたがチャレンジしてみたいなら、ぜひどうぞ。結果は平等に判断するので、あなた次第です」と言われました。平等に扱われたのが、すごく嬉しかったんですよね。それが入社を決めた一番の理由です。実際に入社したら同僚もフラットに接してくれる人が多くて、今でもあの会社に入って、上司や同僚に出会えたことを心からよかったなと思ってます。

色々な人がいる外資系企業ならではですね。
【杉田】最初はオペレーションズという、取引成立後の数字を処理・管理する部署で働いてました。ただ、だんだんと数字がどうやって生まれるのかに興味が湧いてきて、営業にも挑戦させてもらいました。
杖をつきながら営業をしてる人間はほとんどいなかったので、お客さまにもよく覚えていただきました。チャレンジさせてくれた会社には本当に感謝してます。
奥様とも、そのころに出会われたんですか?
【杉田】そうですね。もともとは別の部署で、何かの飲み会で顔見知りにはなっていたんです。ただ、初対面の印象がぼくとしてはあんまりよくなくて(笑)。「なんで杖をついてるの?」って突然聞かれて(笑)。それから何年か経って、たまたま会社のエントランスで再会して「今度飲みにいこう」っていう話になって。妻は年齢が2つ上なんですけど、結構馬が合ったので何回か食事に行っているうちに「もうこのまま進むか、やめるか、どっちかだね」という話になったんです。それならとすぐに付き合って、半年後には婚約してました。

奥様は杉田さんのハンディについて、どう捉えていたんですか?
【杉田】良くも悪くも全く気にしていない人だったので、ぼくの中では楽だったと思います。物事に対する考え方とか、お互いに家族を大事にしているとか、そういう価値観が合ったのが大きかったですね。
そのスタンスが初対面の一言に現れたんでしょうね。そしてお子さんも生まれて、ご家族が増えて。
【杉田】子どもが生まれたことは、すごく幸せだし、楽しいなと思います。でも、走るのが得意じゃないとか、そういう姿をみると、自分が一緒に遊んであげれないからかな、肩車もしてあげられないからかなとか、考える時はあります。たぶん関係してないと思うんですけどね。
あるとき、「パパみたいな杖が欲しい」と言うんですね。ぼくが保育園の保育参観に行くと、杖を持ってるだけで人気者になれるんですよ(笑)。だから息子は杖に憧れがあって「パパみたいな杖が欲しい。だってパパになれるんでしょう」って。自分の姿が彼にとっていいこともあるのかなと思ってます。

飲みに連れられた経験を、次は誰かのきっかけに
それから転職も経験し、NPO法人パラベンチャーズを立ち上げたのですね。どのような経緯だったのでしょうか?
【杉田】2019年に結婚して、2020年にすぐに子どもが生まれました。ちょうどコロナ禍で在宅勤務が続いていた時期でした。そのころに父が倒れて、親の会社を手伝い始めたんです。
父が亡くなったタイミングで、「福祉に関わることをやりたい」という思いが強まって。ただ、会社に勤めながら親の会社も手伝ってと、すべてをやるのは難しかったので、環境を変えようとGoogleに転職しました。
当時のGoogleでは、「ダイバーシティ」や「心理的安全性」という考え方が浸透し始めていました。上司に対して率直に意見を言えるような風通しの良い環境で、そんな会社がどういうふうに「ダイバーシティ」を実現しているのか興味がありました。ご縁があってYouTube部門のポジションで声をかけていただいて、2年くらい働いていました。
いろんなバックグラウンドを持った人たちと一緒に働けたことは、いい経験になりました。ただ、「もっと福祉に関係する仕事をやりたい」と区切りをつけて、NPO法人パラベンチャーズを立ち上げました。

パラベンチャーズには、どんな想いを込めたのでしょうか。
【杉田】大学に復学するときに、友だちが「一緒に大学行こう」と声をかけてくれたり、学内でもサポートしてくれたり、とにかくいろんな人に支えられたんです。だから、卒業も就職もできました。退院したときには大学の仲間や先輩、リハビリの先生が飲みに連れていってくれたり、「合コン行こうぜ」って誘ってくれたり(笑)。そういうのってすごく大事じゃないですか。
20代なんで酔っぱらって「次に二件目行こうぜ」って移動しようとしたら、大きな段差があって。「さすがにこれは上れない」って言ったら、みんなが本気でその階段を壊そうと殴ったりするんですよ、壊せないのに(笑)。
そういう人たちのおかげで、「出かけることってやっぱり楽しい」と思えたんです。1回のお出かけが自分の自信につながって、もっと外に行こうって思えるんじゃないか。そんな「誰かのどこかへ行くきっかけを作りたい」という想いからパラベンジャーズを立ち上げました。「パラ」はパラスポーツのパラ(Para=並行する/もう一つのスポーツ)という意味と、「平等」という意味も持っています。そこに冒険のアドベンチャーをかけた名前にしました。
具体的には、どんな活動を行なっているんですか?
【杉田】去年は森林セラピーを開催しました。環境保全家のC・W・ニコル氏が終の住処として選んだ長野県の信濃町という場所があって。そこで森林セラピーを受けたのですが、いくつかあるコースのうち、地面がサクラのチップで整備されたコースがあったんです。ガイドの人たちと「ここだったら車椅子の人でも森林セラピーを受けられるんじゃないですか」という話になって。そこで病院時代に出会った人たちと一度遊びにいったら、みんな「自分が森に行けるなんて考えられなかった」と感動してくれました。

その後、ボランティアを募って、車椅子ユーザーとそのご家族と一緒に森林セラピーを開催しました。奥さまは旦那さまが車椅子なので、どこか連れていくのにいつも自分が気を張ってたらしくて。でも僕らがいて、ガイドさんがいることで、自分も自然を楽しめたというフィードバックをもらえたんです。その言葉を聞いたときに、「やれて良かった」と心底思いました。今も機会があれば、少しずつ開催しています。
仲間が登らせてくれた、富士登山リベンジ
友だちが外に連れ出してくれた延長に、100人での富士山登頂をしたという経験が杉田さんにはあると思うんですが、どんなきっかけで登ることになったんですか?
【杉田】ぼくが怪我をしたのはラグビー部の合宿中だったんですけど、合宿の最後にチームビルディングの一環として全員で富士山に登るイベントが予定されてました。でもぼくの怪我によって中止になってたんです。当時は「絶対に歩けるようになって、みんなで富士山に登ろう」と、みんなが励ましてくれてました。それから時が流れて、30歳前後の頃にチームのメンバーの結婚ラッシュで、毎月結婚式に参加するような時期が続いたんです。
結婚式のたびに「杉田が歩けるようになって本当に良かった」と声をかけてくれてたんですけど、「今なら本当に富士山に登れるんじゃない?」とそんな話になって。酔った勢いもあって「じゃあやってみよう」と、決まりました。


すごい。
【杉田】ぼくも「この仲間たちとならできるかもしれない」と、登ってみたい気持ちが出てきました。すごいエネルギーを持ってる仲間が多かったので、ぼくが登ったというよりも、仲間が登らせてくれた感覚でしたね。
登山家の三浦豪太さんが慶応ラグビー部と繋がりがあったので、大学時代の富士登山のガイドもお願いする予定でした。ぼくが怪我をしたときに、三浦さんが著書にサインをしてくれて「歩けるようになったら、またやりましょう」と言ってくれたんです。その約束を果たしたいと改めてお願いにいったら、ご本人は全然覚えてなかったんです(笑)けど、「楽しそうだからやろう」と、引き受けてくださいました。

みんなの力ですね。
【杉田】とはいえ、装備を揃えるのも大変で、一式揃えると結構な値段になるんですよ。なのでみんなの負担を減らすために、スポンサーを募ることにしました。当時のラグビー部のジャージのメーカーだったアンダーアーマーをはじめ、靴やバッグ、ストックのメーカーさんにみんなで回ってお願いして、100人分用意してもらって。そんなふうに楽しく準備を進めていたら、メーカーさんが「記録に残した方がいい」と言ってくれたんです。
メンバーにはテレビ局に勤めてる人もいたので、企画書を作って各局に持って回った結果、フジテレビの番組『奇跡体験!アンビリーバボー』で取り上げてくれることになったんです。

みなさん大学を卒業して、いろんな会社に勤めていて、そんな力も合わさって叶えられたことだったんですね。トレーニングもハードだったと思うんですけど。
【杉田】いや、楽しくてしょうがなかったですね。みんなで登れるのが嬉しかったので。でもこの体なので、何かあったらみんなに担いでもらうしかない。だから「痩せろ」とは言われてました(笑)。
実際に登ったときは大変でしたけど、楽しかった思い出しかありません。やっぱり仲間がいる光景がすごく幸せだなって。下山した2日後に世田谷区役所に行って妻と籍を入れたんですけど、富士山の感動が強すぎて、入籍にあんまり実感がなかったくらいです(笑)。

駒沢でかたちにする、支え合う街づくり
駒沢の街が大好きというお話もありましたが、最後に、駒沢で描いていきたいビジョンがあれば教えてください。
【杉田】地元を盛り上げたいというシンプルにその気持ちがあります。兄が会社をやってることもあって、駒沢の企業をもっと盛り上げたいていきたいなとも思っています。あと自分にできることがあるとすれば、福祉の分野はこれからも広げていきたいです。
例えば、駒沢大学駅の西口にエレベーターができたことは、ぼくにとってすごくありがたいことでした。それまでは246を挟んだ反対側の出入口まで回らないと地下に降りられなかったので、ずいぶん助かっています。きっと、お年寄りとか、妊婦さんとか、喜んでいる人はたくさんいると思います。だから、みんなで街歩きをしながらバリアフリーマップをつくるのも面白いかなと思っていて。
いいですね。
【杉田】あとは、現在「埼玉ワイルドナイツ」というラグビーチームの集客・社会福祉担当をしてます。やっぱり車椅子ユーザーや障がいを持っている方って、試合を観に行かれるということを知らない方も多いので、まずは発信がすごく大事です。例えば、チケットも介助者の分は無料なんですけど、4人家族の場合は2-2に分かれないといけなくて、一緒に観戦できなかったり。ワイルドナイツでは今年から「付き添い者」という表現にして、プラス1、プラス2、プラス2と買えるようにしたんですよ。
それはありがたいですね。
【杉田】たくさんの好意的な評価をいただいて。駒沢でも、暮らす人や働く人、事業をやってる人たちが盛り上がっていくきっかけをつくっていきたいと心から思っています。中小企業として、「地元でやる意味」を形にしていきたいですね。

杉田さんはご自身の経験から、福祉に関わるNPO法人を立ち上げられています。杉田さんは、今の社会がどんな世界になったらいいと思い描いているか、聞かせください。
【杉田】今、私は38歳なんですが、人生の半分をこの身体で生きてきたなあというところにいるんです。その上でそんなに大きいことは言えないんですけど、脊髄損傷をした当時は、元々できていたことができなくなったり、車椅子生活になって街を歩きづらくなったり、もう自分が自立することはできないんじゃないかと、生きることの難しさをすごく感じていました。
一方で、去年2025年にデフリンピックが駒沢公園で開催され、ダイバーシティやユニバーサルという言葉がだいぶ浸透してきたじゃないですか。当事者としては、かなり生きやすい世の中になってきています。反面、まだやれることもあるので、それをしっかりやっていきたいなという心境です。
例えば、誰もが誰とでも行きたい場所に行ける。やりたいことがやれる。当たり前に聞こえるかもしれませんが、本当の意味でそういう世界にしたいという思いを、強く持っています。
杉田 秀之(すぎた ひでゆき)
駒沢で生まれ育ち38年。慶應義塾大学在学中、ラグビー部の試合中の事故で脊髄を損傷し車椅子生活となる。卒業後はゴールドマン・サックス証券、グーグル合同会社にてキャリアを積む。2024年、障がい当事者の視点を活かし「誰もが行きたい場所に行ける社会」を目指すNPO法人パラベンチャーズを設立。
ラグビー部の仲間100人と共に車椅子で達成した富士山登頂は『奇跡体験!アンビリバボー』で放送され、大きな反響を呼んだ。現在はNPO活動に加え、実兄と共にリフォーム会社「株式会社ニッセイ」を駒沢にて経営。住宅改修を通じ、誰もが自分らしく暮らせる住環境づくりにも尽力している。
text / Lee senmi photo / Ikuko soda
『今日の駒沢』編集部
駒沢エリアの情報を発信するウェブマガジンの編集部です。駒沢大学駅に隣接した商業ビルの運営・施設管理・テナントへの賃貸業務を26年、株式会社イマックスが、駒沢エリアに住む人、働く人、活動する人…とたくさんの市民の方々と一緒に運営しています。「駒沢こもれびプロジェクト」を通じて、駒沢エリアに関わるすべての方々に役立つ情報を発信しています。
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