第4話

父親の思い出って本当に少なくて。駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)

話し手
40代女性
聞き手
西村佳哲

 生まれが上馬なんですよね。246と環七の交差点のあたり。父方の祖父の家があって、和菓子屋さんをやってたんですよ。この(生活史の)お話、受けられるかなと思ったのは、なんか駒沢の思い出がいい思い出しかなくて(笑)。駒沢が入り口なら話せるかなと思ったんですけど。

 4歳までは、父と母と私で、その祖父の家に住んでたんです。

 けっこうおっきな和菓子屋さんで、戦争中は配給するような家だったらしいけど。父方の兄弟がまわりにたくさんいて。そういう繋がりの思い出が、駒沢にはいっぱいあるんです。

 いま「思い出」って言ったけど、4歳までだから、ほんと断片的にしか覚えていなくて。どこまでが自分の記憶なのか。家族から聞いて後でつくってるのか、わからないんだけど。

 でも小さい頃に父と駒沢公園に行って、鳩に餌をあげた風景とか覚えてるんですよ。ふふふふ。覚えてるんです。その景色しか覚えてないんだけど。

 あと祖父の家の二階がアパートになっていて、その一室で暮らしてたんですけど、昼寝から覚めたら部屋が真っ暗で鍵を閉められてて。

え?

 母が買い物に行ったらしくて(笑)。外から鍵を閉められて。泣き叫んでドアを叩いてたとか(笑)。あと3歳ぐらいのとき祖母とお風呂に入って。悪気なく「おばあちゃんのお尻って、象のお尻みたい」とか言ったら、おばあちゃんがショックを受けてすごい悲しがってた思い出とか(笑)。

 みんなで暮らしてた思い出が駒沢にはいっぱいあって。私にとって、駒沢は好きな場所なんですね。

 で、そこから……大田区に引っ越してしまって。週に一回ぐらい親戚の人たちと会いに来るみたいな交流になって、ちょこちょこと来ていたんですけど。駒沢公園とかあの辺りがずっと好きだったので、30代の終わりぐらいに、夫と「どこに住むか」考えたとき駒沢辺りを探して。で、最近まで住んでいました。

 ラッキープレイスっていうか。いまの仕事に取り組み始めたのも、駒沢に住んでからで。生まれた頃の、家族や人との繋がりと、やりたいことを自分で形にしていく時期と、両方が駒沢で始まってまたスタート出来たところがあって。

 いまは世田谷の◯◯に住んでる。また戻りたいなって思ってるぐらいなんですけど(笑)。

喜ばしい時間が。

 そうなんです。喜ばしい時間がそこにはあるんですよね。

やっぱりすごく寂しかったんだろうな

 で、なんでそんなに喜ばしいのかっていうと、大田区に引っ越してから、父と母の仲があんまりよくなくなった。

 すると親戚との繋がりもだんだん薄くなるというか。小学生ぐらいまでは、従兄弟と遊びに毎週行ってお泊まりするとかそういう繋がりがあったけど、それが高校ぐらいからかなぁ、だんだんなくなっていって。父と母との仲もあんまりよくなくなってきて。

 で、結局つい最近、というか何年前だ? 5、6年前に離婚したんです。高齢離婚。

長い時間をかけて別れたんだ。

 そうなんですよね。駒沢を出てから、だんだん家族……両親の関係が壊れていくにつれて、親戚とのつながりがなくなり。なんていう繋がりでもないんだけど、やっぱりすごく寂しかったんだろうな。

 捏造に近いかもしれないけど(笑)、祖父の家に暮らしてたときの思い出で。なんかつくったり絵を描いたりするのが、すごい好きだったんです。

 母が言うには、「本当にあなたは小っちゃい頃から手が器用で、ハサミを持たせると、3歳ぐらいで、いろんな包装紙の柄を綺麗に切り抜いたり、絵を描いたりしてたのよね」とか。母親がディズニーのキャラクターとか描いたところに私が色を塗ったり。それでモビールをつくったり。

 手を動かしてものをつくる一人遊びだったり、母親との二人遊びだったり。そういう記憶の最初も駒沢にあって。

 小学生の頃、外に遊びに行ったりとかもするけど、一人で工作とも違う、絵を描いたり編み物したり。引きこもり系の子どもだったんですよね(笑)。

 でも、いまこういう仕事をしてるのって、その頃の一緒になんかつくる……一人でつくる時間もあるんだけど、母親とそういう経験があったことがやっぱりすごく大きいんだろうな、と思っていて。

 前はアーティストと地域でワークショップを展開してたんですけど、「描く」とか「ものをつくる」ことを一緒にする場に意味を感じて始めたのは、小っちゃい頃の体験があったんだろうな。

 出来上がるものになにか意味があるとか、「作品である」ということよりも、そのつくってる時間とか一緒に手を動かしてる時間に、あったかいものがあったんでしょうね。

 そういう経験が、すべての人にとって意味があるのかどうかはわからないけど、同じ時間と空間をともにしながら「なにか模索する」とか「新しいものをつくり出そうとする」、そういう時間がすごく大事だなと思って。

 その時間に「どういう意味があるのか?」と思ったから、活動を始めたのかも。

お母さんとのその時間、たっぷりあったんだ。

 うん。母親も専業主婦で一人目の子どもだし、すごく気合いを入れてたみたいですね(笑)。それが「重い」「ちょっときつい」みたいなことも、まぁあるっちゃあるんだけれども(笑)、でもそこにめげることはなかった。私は母親のいいところしか知らないというか。

 妹がいるんですけど、引っ越してから父と母がお店を始めて忙しくなっていったので、妹は小さい頃から保育園で過ごして。私は、4歳ぐらいまでけっこう母と密に、愛情をたっぷり受けた時間でもあったんですよね。

 その思い出と「つくる」ことが重なっているので、理屈なく「いいことだ」と思ってるのもあると思うんですけど。

 小学生になってから、友達と外に遊びに行った思い出もあるけど、家の中とか、学校でも図書館とか、けっこう一人でいる時間が長くて。

 小さい頃は母と一緒につくってたけど、だんだん自分で手芸的なことをしたり、絵描いたり、図書館に行って画集や本をみるとか。そういう時間がだんだん。小学校、中学校では増えてきて。

 中学受験をしたんです。引っ越した先が大田区の海の方なんですけど、あんまりいい地域じゃなくて。校内暴力とか。中学校がすごく荒れてた。

 で、母親がぜったい私立の中学校に行かせたい、っていうので、5年生ぐらいから塾に行くようになって。私立に行く子なんてほとんどいなくて。いまは半分ぐらい行きますけど、学年でもほんと数人しか行く家庭がない中で、母親は「いい教育を受けさせたい」と思ったんだと思うけど。すると、友達と遊ぶ時間もあんまりなく。忙しくて。

 小学校のときの思い出って、あまり悪い思い出があるわけじゃない。すごい楽しかった。学校は楽しかったし。図工の成績はよかったし(笑)。

 でもその頃から、父と母の仲があんまりよくなくなってきた。壊れてはいないけれども、だんだん家の中がギクシャクして。

そんとき私、泣きながら 「よかったね。決心できて」と言った気がする

一緒にお店を始めたのに。

 うん。そうですね。大田区に住んでいたときって、別にそんなに悪いことがあったわけでもない。けどちょっと悲しい。思い出すとちょっと悲しい感じがある。

 自分はなに考えてたのかな……博物館とか美術館に連れてってくれたのも、たぶんそのくらいの頃で。ある意味逃げ場?

 逃げ場っていうか、自由になれる場所だったのかもしれないですね。

 つくるとか、美術館や博物館に行って観たこともないものを観るとか。「ぜんぜんわからない文化から生まれてきたんだな」っていうものを観て、「いったいこの人たちどういう暮らししてたんだろう」と考えたり想像する時間とか。

 現実の世界が嫌いだったわけでもないし、嫌なことが大きくあったわけじゃないんだけど、なんかその時間は自分にとって、自由になれるというか。いろんなことを忘れられる?

 忘れてなにかに集中できる時間。

気がかりがあったんだ。

 うん。

お父さん、お母さんのことなのかな。それが気にはなっていて。

 そう、それはそうなんだと思います。子どもの立場からやれることがなにもないので、気にしないふりとか(笑)。

 いや、たぶん父親のことはすごく嫌いだったんですよ(笑)。

「お父さんあんま出てこないな」と思いながら聞いてました。

 そう。そうなんですよ。いや、でも作文とかに一生懸命、父親をかばうことをいっぱい書いてたんですよね。でもたぶん小学校のときから私は父親が嫌いで。物心ついてからはほんと大っ嫌いなんだけど。ははは(笑)。

「嫌い」が「大嫌いに」。

 小学校のときから本当は嫌いだったんですよね。私には意地悪でもないし、すごく優しい父親で。思春期になってからはあまり口をきかなくなっちゃうんだけど、小学校のときも優しくしてもらった思い出はたくさんあって。

 嫌いではないと思ってたけど、「あ、やっぱ嫌いだったんだな」っていま思いました。ははは(笑)。

 父親として嫌いっていうより人として合わないっていうか、わからない。もう宇宙人みたいで、ぜんぜんわからなくて。

 そう。意地悪なところがあるんですよね。すごく差別的だし。それを見ないように見ないように、小学校のときもずっとしてたんだけど。思春期以降はやっぱりそれが許せなくなるというか。まったく共通理解がない人になっていったんですよね。

 だから小学校のとき、やっぱあれ、見たくないものから逃げてたんですね。きっと。

手元の作業とか、美術館とか。

 でも、それも父親と母親に連れていってもらって、家族の思い出なんだけど。

 なんて言うか母とはわかり合える、共感できるところがたくさんあるんだけど、父とはほぼない感じだったなぁ。

 そう。で、それを怒ってたんですよね。私はきっと。だから……怒りを鎮めてたんですかね。子どもなりに、やり場に。

 ね。子どもっていろんなこと考えますね。本当に。

 でもそんな父も、突然家を出てったんですけど。出て行く前に私にだけ連絡をして、「出ていきます」と。「一人で住もうと思う」「ついてはマンションを借りるのに保証人になってほしい」みたいな。

娘に。

 もうそれはすごい嬉しかったんです。「あ、その方がいいよ」と思って。仲が悪いままずっと一緒に住んでいるより、お互い自由になって生きた方がいいと思ったので、それは本当にこころよく。

 いやそんとき私、泣きながら「よかったね。決心できて」と言った気がする。

最後の最後まで宇宙人でした(笑)

 そう。「いいことだな」と思ったんですよね。憎しみ合って一緒に住むことの息苦しさというか閉塞感について、「父と母との関係だから私には関係のないこと」と思ってたんだけど、「それが解消されるのは本当にいいことだな」と思ってこころよく保証人になり。父親は出ていったんですけど。

 でもまぁ、そうすると意外と母親がすごい泣き。その出来事に激怒したんです。「喜ぶかな。ホッとするかな」と思ったら、長女の私は自分の味方だとずっと思っていたのに保証人になって父親を送り出す。で、それをある程度知ってたのに教えてくれなかった。手助けをした。みたいなところに怒ったり。

 でも、結局父親が出ていって。生活をどうやっていくか立て直すのに、それなりに時間はかかったんですけど。母親は、父親と住んでるときはずっと便秘気味だったんですって。出ていったら便秘が治って、「体調がよくなった」って(笑)。

 母親も最初はなんだかんだ言って、やっぱりショック。長年連れ添った夫婦が別れるってそれなりにエネルギーと何十年かの想い。恨みかもしれないし、いろんな想いがあって、爆発することもあるんだけど。

 やっぱり、なんであの二人が結婚したのか本当にわからない(笑)。価値観も合わないし。そもそもなんで結婚したのかな? と思う夫婦でした。

お父ちゃんが出て行ったタイミングは、小学生とか中学生のときじゃなくて、けっこう後なんですか。

 6、7年前です。二人が70代後半だったのかな。もう老後に入って年金暮らしみたいな二人で。でももう限界だったんでしょうね。「一緒のお墓に入りたくない」じゃないですけど、お互いに限界で、自由になりたかったんだろうな。父も母も。

我慢したのはお母さんだけじゃないかもしれないけど。

 そう、ですね。

でも、けっこう長く築き上げたこの我慢というか。それを私の知らないところで急に、みたいな。

 そういう気持ちはあったんでしょうね。

 でも出て半年ぐらいで、父に癌が見つかって。弁護士さんに報告したら「あ、よくありますね」と言われました(笑)。熟年離婚とか、やっと別れてお互い解放された途端に、どっちかに癌が発見されるって、よくある話みたいです。

 悪性リンパ腫で。いまの医学って進んでるので、まあまあ完治する。名前はすごく怖いけどけっこう治る病気みたいで。抗がん剤治療で副作用もそんなにひどくなくて……最初の治療はすごくうまくいって。

 癌が発見されてから2年半ぐらい生きてたのかな。

 「体調よくなった」みたいな連絡も来ていたんだけど、半年ぐらいしたら「ちょっと腫瘍マーカーが出たんだよね」みたいな話があって。もう一度抗がん剤の治療をして……落ち着いたかな? っていう頃に、別に脳腫瘍が出て。

 最初それが癌から来てるものだってわからなくて、「ふらふらする」とか「ちゃんと歩けない」「気持ちが悪い」っていう症状で現れたので再発だってわからなかったんですけど。

 いよいよ病院に連れて行くのも大変な状態にまでなって、やっと病院に入れたら、どうやら脳に腫瘍が出来てるみたいで、しかも急性でどんどん大きくなっていくと。

 病院に入って2週間ぐらいで亡くなってしまったんですけど。それが2年前。

最近の話。

 そうなんです。もうちょっと自由に、勝手に生きてくれればいいなと思ったんですけど早々に亡くなってしまって。でも最後の最後まで宇宙人でした(笑)。理解できなかったですね。

 「かなりおかしいからとにかく精密検査してもらおう」と思って病院に連れてった日に、血液をとるのに、すごい痩せちゃったのでなかなか針が入らないんです。で、最初看護婦さんがやってくれてて、なかなか入らなくて。今度男の先生が来て血液採ろうとしたら「やっぱり男の先生が上手ですよね」とか言っちゃって。

 「クソジジイ」と思った(笑)。ほんとそういう人なんですよ。

 そしたら先生が、「いや看護婦さんの方が僕なんかより絶対上手です」って言いながら、やっぱり失敗してて(笑)。

すごい嫌いなんですけど、すごく寂しい人で

話だけ聞いてるとなんか面白いけど(笑)。

 最後の最後まで「このクソジジイ」と思いながら。そういう人だったんですよ。ほんとに頭に来る。

別れて自由に生きてほしかったけど、それが闘病生活になっちゃった。

 そうですね。

その生活は誰がみてたんだろう? と思いながら聞いてたけど、けっこうみてたのか。

 いや、でもほとんど私はみてなくて。困ったときには連絡が来るんですけど、介護付きの老人ホームに自分から入るって言い出して。

 食堂があって、個室があって、けっこう都心にある老人ホームを自分で探してきて、「そこに入りたい」って言って。ある程度のことはそこにいる人がやってくれるみたいで。私に甘えることもあまりしない。そういう関係じゃなかったんですよ。父親とは。

 「助けて」とか「なんかして」という関係でなく。意外と最後まで「自分は父親でいたい」っていう人だった、と思うんですね。

 私が仕事で忙しいのもわかっているから、なんかあっても「あ。もうここまででいいから仕事行け」って感じで、面倒みるっていうのは、本当に具合が悪くなる直前までなくて。

 病院でも原因がわからない期間だけ。買い物したり、ケアマネージャーの人と相談していろんなことを整えたりしたのは、ほんと最後の2〜3週間だけで。あとはその施設の中で、ほぼ直前まで、自分でだいたいなんでもできてたんですよね。

 私と父親の思い出って本当に少なくて。駒沢公園で鳩に餌をあげたとか(笑)。でも価値観がやっぱり…「男の先生がいいよね」とか私にはぜんぜんわからないというか「許せない」みたいな(笑)。

理解できない。理解したくない。

 (笑)そうです。

でも最後まで父親でいたかった、という話を伺うと、家を出るときの「保証になってくれ」という連絡はけっこうジャンプというか。

 そうですね。いや、すごい孤独な人だったんだと思うんですね。

 兄弟はたくさんいるけど、男兄弟のいちばん下で、妹が何人かいたんだけど、どっちかって言うと妹と仲よくて。男兄弟の中では四男で、いちばん不遇だったと思うんです。

 で、女兄弟にちょこちょこ連絡とってたみたいだけど、友達も多い人じゃなくて、頼れる人がそんなにいなかったんですよね。だから私しかいなかった。保証人になってくれるくらいの近さで、頼れる人が、私しかいなかったっていうことだと思うんですけど。

 なんていうか。すごい嫌いなんですけど、すごく寂しい人で。父親のことを思うと、なんて言うんだろう、自分の父だからというより、なんか「人として寂しい」みたいな気持ちになる。

 遺品の整理をしても、人と繋がりのあるものが本当に少なくて。

 母親は正反対なんですよね。友達がたくさんいて、近所のいろんな人と仲よくなって、ちょっと買い物に行くとたくさん知り合いに出会うのでなかなか帰ってこない(笑)。

 父親は性格も悪いからだと思うんですけど、もう本当に友達がいなくて。こうやって話していても、なんとも言えない寂しい気持ちになる。

 だからいまの活動(仕事)をある意味、父親を反面教師にしてるのかもしれない。

 人と人との関係を紡いでいく、フラットな関係の中でアートを通して共生していくとか……。それが大事だ、ってことももちろんだけど、自分自身がすごく惹かれるのは、やっぱり父親みたいな人が近くにいるのは大きかったんだろうなという感じはしていて。反発というか。

 最後まで父は、私のやってることを理解してなかったと思います(笑)。

残念なんですか?

 いやぁそうですね。残念なのかなぁ……うーん。残念ですよね。認めてほしいっていうより、わかり合えない人とはわかり合えない、と思いたくないって言うか(笑)。

……だから私は、人とわかり合いたいんでしょうね

 わかり合えない……そうですね。価値観がぜんぜん違ういちばん身近な人と、それでも触れ合ったとか。わかり合えないけど認め合えた、みたいなことがあると救われるんだけど。そこに至らずに逝ってしまっているので。それはやっぱりちょっと。なんとかこれを成仏させたい(笑)。

 これはなんとか成仏させたいですね。それは残りの人生で成仏させていくことなんだろうな。

 (いまの仕事を通じて)いろんなコミュニティで出会ってる人たちは、あるていど価値観が共有できる人たちなんですよね。一緒にいて気持ちがいいし、いろいろあっても、聞き合えば触れるところがある人たちですよね。

 やっぱその外側。その輪に入って来ないか、そもそもそこをチョイスしない人たちの方が多いわけで。そういう人たちのことはすごく気になっていますね。

(これまで仕事ぶりを拝見してきて)「情熱があるんだな」と思っていて。「信頼があるんだな」とも感じていて。大袈裟だけど「愛してるんだな」と思ってたけど、でもなんかこう立ち向かっていく感じがどっから来てんのかわかんないな、っていうのはあったんです。

 うん……密かに立ち向かってる(笑)。……だから、わかり合えない人とわかり合いたいんですよね、きっとね。

 自分の理解をぜんぜん超えている人たちと。

 わかり合えないんですけどね。私はやっぱ父親の価値観とかわからないし。で、どこかで「私の方が正しい」と思っているんですよね。

 でも私がわからない人も、たぶん向こうは向こうで「自分が正しい」と思い、彼らの根拠とか論理とか理屈があって、そこからは、なかなかわかってもらえない。

 でもやっているのは、いつかわかってくれると思ってるからなのかなぁ。

お父さんが寂しい人だ、っていう話を聞かせてもらいながら感じたのは、その寂しさの壮絶さというか。すごくその中で、ちゃんとしようとしてる気配がある。

 うん。そうですね。

頼る人がいなかったのかもしれないけど、でも、人にもたれ掛かる感じが伝わってこなくて。ちゃんとしようとしてるというのかな。それで、さらに寂寥感が増してくるというか。

 そうですね。それだ、寂しいのは。

 そうですね……父親のことを考えて寂しい感じがするのは、ずっと「人として寂しい」と思ってたんです。客観的に。

 でも、父が最後までちゃんとしようとしてたっていうことを、たぶん私は理解していて。それが寂しかった。

 ちゃんとしようとしてたことは伝わっていたというか。

 私も理解していたし、父もたぶん理解していて。私のやってることは、ずっと否定……に近い形で「もっとちゃんと生きてほしい」と思ってた(笑)。

 「会社とかに勤めてちゃんと生きてほしい」って。そういう価値観の人だったので。私、いまパートナーとは籍を入れてないんですけど、それも「結婚というのは籍を入れるものだ」「そうすれば安心」みたいな。

 だから私がやってることは全部……否定じゃないけど、「もっとこうすればいいのに」みたいな。「なんで籍入れないんだ」「なんで企業に勤めてまともに生きないんだ」。そういう感じだったんですよ。

でも、彼もお母さんと二人で商売を始めたわけですよね?

 (笑)そうですよね。自分だって会社辞めて始めてるのに。そうなんです。不思議なんですけど、事あるごとになんかそんな感じで大変だったんです。

 「わかり合えないな」「こんなまともに生きてるはずなのに」みたいな(笑)。

 でも父も私がちゃんと生きようとしてるっていうのはわかってたんだろうなって、いま話してて思いました。……だから私は人とわかり合いたいんでしょうね。

 もうちょっとわかり合いたいんでしょうね。もうちょっとね(笑)。

 本当に看護婦さんに失礼だし。医療従事者の人たちって無償の愛というか、すごいなと思って。 「高い健康保険料も喜んで払います」みたいな気持ちにさせられたんですけど。そんな失礼な父親に対してもケアしてくれるんですよね……そうなんですよね。

 そう、父親みたいな人ともわかり合いたいと思うんですよね。

 もうちょっと(笑)。もうちょっと共通言語っていうか。

 面と向かってジェンダーの話はできなくとも、「あぁ、ちゃんとしようとしてるんだ」「宇宙人ではないんだ」って。その人なりの、「ちゃんとしようとしてる」さをわかりたいし。わかり合いたいと思って、たぶんこういう活動をしてるんですよね。

生活史を聞いて:ミニインタビュー
西村佳哲さん

「トイレ行っていいですか?」と言ったら、もう済んだと思っていいんじゃないか

「聞き手」のミニインタビューは私(西村佳哲)が聞き書きを担当している。私自身のミニインタビューはどうしたら?というわけで、一人二役で書いてみます。
 

西村 「駒沢の生活史を始めよう」って参加者を募集していた頃だから、2024年6月か。「〝生活史の聞き方〟や〝書き方〟講座用にサンプルが要る!」と思い、駒沢出身の友人にお願いして。

彼女に関心があった?

西村 そう。初めて会ったのはわりと前だけど、その後あまりじっくりお話を聞く機会はなくて。

 年下の人だけど尊敬していて、仕事ぶりにとても情熱があって。彼女自身に対してもだけど、「この働きの熱源はなに?」という関心があった。当日どんな話になるか、お互いわからないまま始めたけど、結局その話を聞かせてもらえたな。

 2時間ちょっと話を聞いたのだけど、原稿にしたのは最初の約50分です。

 お父さんの話を終えたあたりで「トイレ行っていいですか?」とおっしゃって。行って帰ってきたら別の人になった。

別の人?

西村 後で本人も話していたけど、なんかもう気が抜けてしまったというか。「一仕事済んだ!」みたいな感じで。
 私の方も「受け取りました!」という感じがしていたから、50分で止めてもよかったんだけど、「生活史は2〜3時間聞く」と参加メンバーに伝えようとしていたから「もうちょっと聞かないと…」と思って頑張った。

 けど、二人とも『本編はもう終わったよねー』という感じだったと思います。

 話し手が「トイレ行っていいですか?」と言ったら、もう済んだと思っていいんじゃないか。

用が。

西村 用はそのあと足すんですけど。

 特定の事柄。自分が知りたいことを聞かせてもらうんじゃなくて、「その人のことを本当に知りたい」と関心を寄せてゆくとき、相手が自分のことをどこから語り始めるか?は面白いポイントだな。

 この日は「どちらでお生まれになったんでしたっけ?」という問いで始めた。そこから今日この日にいたる数十年分の経験世界を、どんなふうに歩き、語って聞かせてくれるのか。これはちょっとした冒険だな、と思う。

 「駒沢の生活史」に参加して、面白くなって、個人的な生活史プロジェクトを始めた人が何人かいるけど、自分もそう。始めています。