第1話

世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら? みたいな話があったみたい

話し手
70代女性
聞き手
吉田和弘

 駒ってのは、馬が関係するエリアなんですね。私は小学校のときに転校してきたんだけど、そのときに「馬と関係するところなんだよ」って、よく聞いてました。

 で、駒沢ってのは、神社もあるエリアで、中学校とか小学校もあるし、駒沢小学校もある。昔からの農業地とか畑とか。

 なんていうか、人が住んでるっていうイメージはあまりしなかった。商業地じゃない。

 それで、私の父が三軒茶屋に知り合いがいて。父は変な話、相続したお金がすごく入って、その相続したお金を、田舎者だからね、きっと吹聴したのね、友達とかにね。だから、そのお金をすごく狙われたっていうのがあって。

 自分の野心って言うんじゃないけど、大学は日大だったし、自分は田舎に引っ込んでるんじゃなくて、いずれ都会に出るんだ、みたいな思いから東京に来たんだと思う。

 でも田舎者だから、戦争から帰ってきたら、やることがなくて、漁師になったりしてた。

そうなんですね。

 そんなわけわかんない人だったけど、陸軍の上等兵の上のほうの人で、ちょっと父を可愛がってくれる人がいて、「会社で働かないか」って言われたら、そこが保険会社だったわけ。

 それでまず伊東(静岡)で、そこの子会社、支店みたいなところで、何人か友達とか呼んで働き始めたのね。

 昔はおばちゃんじゃなくて、おじさんたちがやってた。それで、伊東の、別荘地で売り出してるようなのを、父親は騙されて買わされたりしてたわけ。そしたらそういう関連か、東京の世田谷はまだ土地が安いから、そこらへんを買ったら? みたいな話があったみたい。

駒沢に下宿付きのアパートをつくった

 私はその頃まだ小学校の3年生ぐらい。でもそんなことは当時ぜんぜん知らなかった。

 母は親戚がやってた種屋さんを継いでて、それを近隣のお客さんたちが「どうしてもお店を閉じないで」って要望があって。その隣に保険会社の支店があって、母は隣で種屋さんやって共働きしてたの。

そういう位置関係なんですね。

 母は商店の娘だから、商才があったっていうか。お金はそれなりに儲けたみたい。学校にも色々な水栽培のものを卸したりとか、仕事を広げてた。お金は、父が大して働かなくても十分入ってたわけ。

 だから東京なんか行きたくなかった。田舎で十分暮らしていけるものを持ってたからね。

 だけど、うちの親父さんはさ、母が才能に長けてたから、それに負けたくないって思いがあったんじゃないかな。それで東京行きを強引に決めちゃった。

 私は東京に行く1週間ぐらい前に初めてそれを知ったの。なぜかって言うと、私はおしゃべりだから、周りにベラベラ喋るとみんなも驚くから(笑)。お姉ちゃんは知ってたの。妹も知ってたのかな。そこら辺わかんないな。

 私はぜんぜん知らされてなくて。お姉ちゃんから、突然「私たち東京に行くんだよ」、みたいな感じで。え?なに言ってるのか意味わかんないって。「東京なんて都会じゃないの」って感じで。

お父さんは学生のときに東京にいたことがある?

 浪人してね、最初に北大を受けるつもりだったみたい。絶対受かりっこないのに(笑)。浪人中は北海道にいたんじゃない?

 だけどさ、日大でテニスやったり結構いろんなことやってて、遊んでたんだよね。三男坊で、体裁だけで大学に行ったりして。4人男の兄弟がいた中で、うちの父は3番目だったのね。あとの3人は農業やってておとなしくてさ。

 それで一家で東京に来ることになったら、上馬の方と駒沢と、三軒ぐらい不動産屋が言ってきたらしいんだけど。

 それでいまの家は借地だったのね。だけど昔、もう60年以上前じゃない。70年前。70年ってことないか。65年ぐらい前。土地っていう感覚がまだなかった。才長けた人なら買い占めたんじゃないかと思うけど、うちの親父さんもよくわかんなかったんじゃないかしら。

 ここは40坪弱だけど、もう一つ別ので50坪ぐらいで、そこは丸々土地付きだったのかな。土地付きの家とかって言ってたけど、でも結局ここの方が渋谷とかにも近いとか、なんか色々考えてたよ。ここの方が売りやすかったのかも。

なるほど。

 それで駒沢に、下宿付きのアパートをつくった。下は私たち屋主が住んで、その上に大学生、駒大とか日体大の学生が入るような下宿屋さんみたいな。うちの母はその下宿屋の宿代収入で生活できるような感じでやってた。

うんうん。

 ここだって、本当はもっといいところがあったかもしれない。

 なんていうか、父は保険の仕事に向いてないっていうか。相続したお金があっても、お金の使い方は知らない。だからいいカモだった。坊っちゃんってのはね、人に言われて初めて気づくんじゃないの。いまから思えばだけどね、父にうまい話がいっぱいきたわけ。

 父は横浜にも土地持ってたし、保土ヶ谷にも。売っぱらっちゃったけれども

ふーむ。

 私たちは駒沢にずっと住んでたね。母はその、何人ぐらいいたかな、20人ぐらいは。ここの2階のところにさ、4畳半が1、2、3、4つぐらいと、3畳が4つぐらいかな、10人ぐらい。

 それで昔はね4畳半に3人とか、うちのお母さんもわかんなかったから、「友達が一緒に住みたいって言ってます」なんて言ったら「いいわよ」って。学生がすごいいっぱいいたときがあった。

 で、私たちが引っ越してきたときは、ここにその下宿屋があって、前に二軒家があって、隣に一軒もいかな、こっちに一軒、あとはみんな空き地。

 ここら辺のなんかは畑。伊東なんかに比べてよっぽど田舎だった。

 それで、246は玉川電車が走っていて、バスもあんまり走ってなかったんだけどね。玉電が二子玉川から渋谷まで行って、私がいた頃はもう人間しか運ばなかったけど、そもそもは多摩川の砂利、建設用の砂利を運んでた。

その当時の玉電の駒沢の駅っていうのはどの辺に?

 いまで言ったらね、駒沢交差点あるじゃない、あそこの角っこ。なんだっけ、交差点があって、その駒沢公園の方に行くところの角っこの前あたり。

 電車のさ、こう、10センチぐらいの高さがあって、電停って言ってたの。それで、その次が真中(まなか)だったのね。パン屋のアンテンドゥとかあるでしょ。あそこらへんの前あたり。

都心に来る人と元から住んでる人がごちゃまぜになって、 わけわかんなくなってる

 私は、高校は目黒の高校に行ってたから、バスで通ってた。駒沢通りの方をずっと走っていて、東横線に繋がるんだけど、東京駅の八重洲口行きってのがあったかな、それに乗ってたの。

なるほど。

 すごく賑やかだったのは、やっぱり三茶よね。渋谷、三軒茶屋で、次が上馬なのかな。

 駒沢は商業地って感じじゃなくて。いま思えば桜新町の方が、サザエさんとかの「目玉商品」があったから。

 駒沢はなにしろね、東映の野球のグラウンドが、東映フライヤーズっていうのがあったの。そこで駒沢球場ができたわけ。駒沢球場ってのは、いまのオリンピック公園の前の土地。それを壊して公園をつくったんだけどね。だからここは東映フライヤーズの大川さんっていう社長が、球団を買ったのよね。で、東映って映画館があるじゃない。その人が桜新町に住んでた。そういう縁があった。

 だんだんね、商業とかが栄えてきたときに、ここらへんは土地があったから、大企業の人たちが、官舎、じゃなくてアパートがいっぱい建っていったわけ。銀行とかも。

 で、そういう人たちがこう、会社の寮みたいな感じでやって来た。いまもあるけれども、昔はいっぱいそういうのがあった。会社の異動とかで親子で駒沢に来て。で、またしばらくするとどっか行っちゃう、そういうふうなエリア。

ふむふむ。

 空いてるところにはビルがどんどん建って、マンション。マンションって言ったって団地だよね、その会社が持っている。団地がいっぱいできてきた感じ。

 で、元々ある小さい和菓子屋さんだとかがある。本当にお店は点々としてあったけれども、スーパーも出てきた。言っても、西友とサミットとライフ。デパートなんてないしね。だからこう、古びた感じのエリアなんじゃない。

 例えばさ、田舎なんかはいまどんどん過疎化するっていうか。それでポツンと一軒家なんか見ても、昔はそこに住んでて、何世帯かが一緒になって助け合って生きてきたのが、ある程度経つと2世帯ぐらいしか残ってなくて、あとはみんな過疎っていくじゃない。

 でさ、駒沢だとかは、都会でも、都心に来る人と元から住んでる人がごちゃまぜになって、わけわかんなくなってるじゃない。

 だから、私なんかが思うのは、葛飾とかの下町、そういう風な下町でずっと生きてきた人たちだって、そこにずっと居たくてもみんな拡散してくってか。

 都市計画の中ですごい影響受けるでしょ、住んでる人たちはね。

 ここなんかでも、環七つくるときにそこから追い出されてね。別の方に引っ越したりとかは結構あったから。駒沢は246の通りをまっすぐにするために立ち退きを言い渡されたところもある。突出してるってことはないね。駒沢は(笑)。

 民俗学的にこう田舎だと、いろんな人たちが研究して、あちこち行くじゃん。だから都会だと、例えば谷根千みたいにね、あっちの下町の方にみんなが注目するけど。世田谷とかはちょっと中途半端なエリアじゃない?

 伊東のほうが住んでたら面白いんじゃないかと思う。温泉街でさ、なんかいろんなものがあって。ここら辺って半端なんだな。

伊東のときはどんなところにいっていましたか?

 あたしはすごい行動派だったからね、友達を引き連れてった感じで。伊東公園だとかね、もういろんなところをね、あっちこっち。中古の自転車お父さんが買ってくれたから、それ乗って行ってたねえ。

 お姉ちゃんと妹は、そんなに私みたいに出歩かなかったから。私はもう東京もそういう風ないろんなことができると思って期待して来たのに、そういう感じじゃなかった。だからなんていうのかな。

 ただね、ほんと一時期ね、二子玉川に毎日行ってた。ボートを漕ぎに(笑)。

漕げるところがあったんですね。

 じいさんばあさんがそこにいて。私は、30分ぐらいいたかしら。それでもう毎日行くと、おばあさんとも知り合いになるの。一人で行って練習してた。みんな笑うんだけど。ときには友達と3人ぐらいで行ったりとかして。

 だからお金がすぐなくなっちゃったよね。友達に持ってこいとか脅したりして(笑)。

なんでもいいんだけど、自分の力で自分の食い扶持は稼ぐんだ

──そこそこお金はかかる趣味でしたか?

 うちのお母さんもお嬢様って感じだからね、あんまりお金に執着する人じゃなくて、私が「お金が欲しい」って言ったらくれたよね。

 だから、お姉ちゃんとか妹はそういう風なことしなかった。私はほんとに悪いことしてさ。「ここにお金がある」って知ってたから(笑)。そこをいただいて、子供だけ集まる駄菓子屋みたいなところで焼きそば食べり。ものすごいワル(笑)。

──(笑)

 種屋さんて、イメージで言うと、昔の薬屋さんみたいにちっちゃい引き出しがばーってあるわけよ。

 で、その中で、私の身長よりちょっと上にお金があって。いちばん下の引き出しを開けて上るのを覚えるってすごいよね。それでそこから手突っ込んでさ、100円札とか、10円札5冊だったのかな。100円は結構大金だからね。

 その現場がお姉ちゃんに見つかったりして。お父さんに引っぱたかれたりして。ほんと不良少女。なんかね、反感っていうかね、父親に対するこう、嫌がらせ。たぶんいま思えばさ。

わかるような気がします。

 それでも、東京に来ちゃったらそういう風な冒険をすることもなくなったから、そんなに悪ではなく、まあ普通の子に戻っちゃったけど。

 でも成績は普通ぐらいだから、別にそんなに一生懸命勉強しなくてもなんとか都立高校には入れるぐらいかな。でも、あんまり駒沢に対して執着はないね(笑)。

種屋の話は伊東のこと?

 そう。伊東にいたころ。それでね、駄菓子屋にたむろしててさ、カルメ焼きだとかそういうのつくって。上手に作りたいってやって。

 まあね、結構色々遊んで楽しかったよね、いま思えばね。

伊東から東京に来て、なんか嫌だっていう感じでもなく、「こんなもんかな」ぐらいに感じたということでしょうか?

 自分で夢に描いていた東京のイメージっていうのは、やっぱり都会っていう。だから渋谷なんかはそれに近いんだと思うけど、駒沢のエリアっていうのは、激しい差があるわけよね!

 だってさ、着けばもうなんか農家でさ。要するに畑でしょ。大根も見えるの。伊東にいたころはそんなとこまでは見えないよ。伊東の農家はだいぶ離れてたからさ。

 だから、都会の東京に引っ越しをするってことは、いまでいう109のようようなところに自分の家はあるのかなと。それがぜんぜん違ってたからびっくりした。

 伊東にいた頃なんて、平屋のそんな広い家でもなかったから、家に対する憧れとかは別になかった。

 ただ、父の実家って農家だけれども、元々村長だとかやってた家だから、結構きちっとした、なんていうのかしら、広い旅館みたいな感じ。芝生がばーってあってさ、そこにみんなで夏になると集まったり、結婚式とか葬式も家でやるの。

大学以降はどうでしたか?

 その後はね、高校のときにウーマンリブじゃないけどね、そういうのが流行り始めたころで。それで、女性も絶対仕事を持つべきだとかって思ったから、自分の中では専門職でっていう形で。

 だから、保育士でも看護師でもなんでもいいんだけど、自分の力で自分の食い扶持は稼ぐんだっていうのが、高校のころからすごく強かった。大学に4年間行ってっていうよりも、2年間ぐらいで早く職を得て自立したいって思いが強かった。

そうなんですね。

 お姉ちゃんは頭もまあまあだったから、薬剤師を目指してたけど。

 で、やっぱり薬剤師になるのは結構大変で、そこで似たようなとこで、結局、最終的に衛生検査技師の方に行ったんだよね。妹は法学部の方に行ったけどね。

 私はもう自分がそんな頭がいいって感じしなかったからさ、学校は無料で行ってさ、もう親に心配かけないでやれたっていう。私は、都立の保育の高等専門学に行ったけどね。でも、すごく正解だったと思います。友人もね、未だに付き合った友人たちも得られたし。

 それで実習に行ったときに、ほんと、日本の貧困を見たと思う。

 私は最初、虚弱児施設に、2週間ぐらい実習に行ったの。びっくりするんだよ。貧乏なんだよね。麦ごはんが出てさ、自分でもそれまで食べたことなかったけど。友達と二人で実習先の虚弱児施設に行ったわけ。虚弱ってのは「体が弱い子」だと思ったら、もういろんな意味での虚弱体質を持ってて。

 いま思えばよ。親からの虐待を受けていたとか、捨てられたとかさ、そういうような子どもたちがなんか集まって、集団で暮らしてて。びっくりしたね。

「あなたは結局はね、自分の好きなことをやって生きてこられたのよ」

 そこで実習したときに、もう、ぺっちゃんこの布団で2週間そこに泊まり込み。

凄い。

 もうね、寝るときにね、なんか、むやみやたらに涙が出てきたね。私はこのまま帰るけど、この子たちはずっといるんだって。

 そこに、浅草の靴屋さんに中学出て就職した女の子がいて、その子がなんか妊娠させられたっていうのね。わけわかんないお店で。私そのとき、なに言ってるのか意味がわかんなかったのね。私もまだ18ぐらいだからさ。「え? そんなことってあり得るの?」って。

 親もいないし、行くところがないから、自分でその施設に「助けて」って来たわけ。可愛い子だったんだけど、結局、流産しちゃったんだけどね。

 このときのことははある意味原点になっている。女性が働くとか、フェミニズムなんて言ってない時代。私は公務員になって、たまたま福祉の方に異動になって、ってのが運命づけられてるみたいに感じた。

 それから福祉事務所に行って、婦人相談員になったときに、そういう状況に陥った女性たちを救う仕事をするようになってね。なんかびっくりしたね。そういうふうに自分の人生が繋がってた。

本当ですね。

 だから、あたしは、社会学的なことも本当は勉強したかったんだけど、現場に行くのが早かったのよね。

 いまになって、勉強はやっぱり必要で、やれるときは勉強しといた方がいいんだなって感じたけどね。でも実際に勉強したら辛くなっちゃって、継続できないかもしれないけどね。

 自分としては、最終的に公務員になるまでいろんなところを回ることによって、行政とか、生きてる人たちがどういう風に関わるかってこととかを、いろんな意味で学んだっていうか。考えさせられたっていうかね。

ちなみに専門学校も駒沢から通われていた?

 いや、1年だけ自立したくて。お母さんに「私は無料の学校で全然お金使ってないから、自由になるお金をください」って言って。それで不動屋さんに行って、学校の近くに下宿してた。

 友達が遊びに来たりして、楽しかった。女ばっかりだけど。

 それで、卒業して保育園に勤めた。そしたら腰痛めちゃってさ。痛くて痛くて、土曜日もすごく夜遅くまで働くのよ。これは腰がダメになっちゃうと思って、1年間休むことにして。またすぐ職場復帰できるから。でも、そのまま辞めちゃったね。

 先生がもったいないって言ってくれたんだけども、続けても結局周りに迷惑かけるから。あとは民間のところに勤めたりもして。

 そこで知り合いの人が、「渋谷区の公務員試験を受けてみて」って言って。公務員のメリットは知ってたから。それで、試験を当時の職でも受けられるからやってみたらって言ってくれたから、やってみたら受かった(笑)。

 保育士の資格を持ってたんだけれども、年齢的には保育園はちょっともうダメだったのね。

 そのころ英語の勉強がしたくて、早く終わればそのあと学校に行ってとか計画してたんだけど、やっぱ5時15分まで働かなくてはいけなくって。あとは妊娠したりとか、なんだかんだあって。そして「ずっと保育園にいるよりも事務職に移った方がいいかな」って思って。

 その試験はなかなか受かんないんだけど、一回で受かって。

すごいですね。

 私の世代では、友人なんかもそうなんだけれども、とくに保育の学校とかに行ってた友達っていうのは、秋田から来た人なんかで高校出てすぐ就職して、それでもやっぱり専門学校に行って勉強して、ちゃんとした職を得たいっていう風な動機を持っていたり。

 のほほんとはしてなかったね。

 どっちかって言ったら私の方は頭でっかちで。本は読んでいてね、いろんなフェミニズムだとかさ、雑誌とかでいろんなことを頭の中で勉強して色々してたけど。

 友人の方が「実際障害持った兄弟がいる」とか、そういうすごく個人的にいろんなものを抱えながら生きてきたっていう、リアリティーがすごく強く出てた。びっくりしちゃって、みんなが自己紹介するわけ、4月に。本当のことをちゃんと喋るわけ、圧倒されたわね。

 そうするとね、普段は寡黙で大人しい子に「あなたは結局はね、自分の好きなことをやって生きてこられたのよ」とかって言われて。そう言われれば、そうだなって。

もうちょっとちゃんと勉強しとけばよかったな

厳しいことも言われる。

 その友達が、自分が下宿してたときに泊まりに来たりして。そのときにいろんな話をして、私にとっては違った意味での学校っていうかね。

 結構年齢がいって人もいたし。仕事して、一旦辞めて学校に来たりとかして。昼間、保育園の助手とかやってから勉強に来てたりね。

 だけど、いまはもう都立のそういう風な学校はなくなっちゃったの。いい学校だったんだけどね、もったいなかった。

 私にとっては、選択は間違いなかったと思う。でもやっぱいま思えば、もうちょっとちゃんと勉強しとけばよかったなと。私は、変な話ね。別にその頃はお金に困ってなかったから、塾に行こうと思えば行けたけど、勉強が好きじゃなかったんだよね、結局。

 なんか昔、学生村ってのが流行って。受験生がみんな長野に寝泊まりして勉強する、っていうのがあったの。東京の学生なんかも来てた。

 私もうちでブラブラしてるよりは、少しは勉強する気になるだろうかと思って。結局遊んじゃったけど(笑)。麻布高校とか、有名な学校の生徒たちも来ててさ。「私たちとは違うわね」なんて。一生懸命勉強してるから。

学生村にいっていたのはいつ頃?

 高校2年のとき。17歳の夏に10日間ぐらい。それでね、私の友達はもう1年からずっと行ってるって人もいてね。やっぱり3年だったかな? 友達に誘われて。

 私勉強しなかったから。妹とかお姉ちゃんの方がね、塾に行ったりして勉強してたの。だから文学全集とかはすごく読んでたけど、「学校の勉強」が悪かったな。悪かったっていうか、普通にはやってたけど。

 でも人と議論したりするのは負けなかった(笑)。

そういうのも、「勉強」ですよね。

 男の子とやりあってさ、あの時代だから。真っ向からさ「家父長制が云々」とか、そういう風なことで、なんだなんだって色々やってた。

 みんなで集まって、文化祭とか、原子力の問題とかね、雑誌にいっぱい書いて発表したりした。そういう風な都立高校文化を、私たちは担ってたよね。そういう楽しさみたいのはあった。

生活史を聞いて:ミニインタビュー
吉田和弘さん

いや普段からこう喋ってるけどな、みたいな(笑)

吉田 年上の身内で、70ちょいくらい。話すのが好きな人だなと思っていて、この企画を聞いたとき、すぐ「この人だな」と思ったんです。

 私は本の編集をしていて、普段は理系の、しかもノンフィクションを扱っています。それとまったく違う文章は挑戦としてやってみたいことで。ワークショップでは「普段と違って思いのほか大変かも…」と思ったけど、違うなりに面白くなったかな。

 あとその人とも、普段話さないことも聞けて関係性も深まったかな。多層的に面白い経験になりました。

普段と違う。

吉田 編集していない編集というか。「どう聞くか?」という訓練って、出版社でもあまりしない。先輩に付いて行ってみたいな機会はありますけど、私は初めてちゃんと学んだところもあって、自分の編集力や文章を考える上でも刺激になった。

生活史の「聞き方」が。

吉田 掘った溝に誘導しない。普段はそういうことばっかりしてるので。話の順番を入れ替えることもあるけど、極力しないのも難しい。

 話し手も編集されたものが出てくると思っていて、話したまんまのテキスト(テープ起こし)を読んで、「すごい恥ずかしい」というリアクションが大きくて。それは岸政彦さんの『東京の生活史』を見せて納得してもらうんですけど。

 本人のパートナーが読んで「なんかすごい口調だね」と言われたとか言ってて。いや普段からこう喋ってるけどな、みたいな(笑)。

関係性も深まった、って。

吉田 はい。身内にそこまで突っ込んだ話を聞く機会は、冠婚葬祭でもなければとないと思う。そういうのと別に設けられたことで、立ち入った話もしやすくなった。

 今回の経験が、互いによりオープンに話せるきっかけを積み重ねてくれている気が、少なくとも自分はしている。

 文章に妹さんが出てくるけど、亡くなったもう一人のお姉さんがいたんですよね。その方の話を聞きたいけどなかなか聞けないな…と思っていたんですが、今回ちょっと聞くことができた。それは僕には大きかった。最終稿に残したかったけど、うまくいかなったんですが。

 そういうちょっと重かったり暗かったりする話も、そうならずに話していただけた。駒沢について話していく延長で、自然とそういう話が出てきたというのは大きかった。

 で、それはきっと関係を良くしていると思うんです。劇的にではないけれど、手応えとしてはしっかり変わった気がしている。

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