「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、そのとき初めて、ものすごい実感した
- 話し手
- 70代男性
- 聞き手
- 山中散歩
幼少期の大きな思い出っていうと、空からビラがまかれたこと。なんのビラかっていうと、缶詰の宣伝のビラなんですねぇ。なかに当たりがあったんですよ。たぶん乾物屋さんに持っていけば、鮭の缶詰に交換してくれたんでしょうけども。
僕は当たりくじを拾ったんですね。そしたら友達に「はずれの5枚と、それを換えてくれないか」みたいに言われたことは、ひとつ強烈に覚えてますね。
何歳ぐらいのときですか?
たぶん小学校低学年の頃かな。
いま、田園都市線が走っているところ。あそこに「玉川電車」っていう路面電車が走ってたんです。うちは玉電の新町って駅のそばだったんですね。新町には駅舎がなかった。駒沢には木造の駅舎があったんですよ。だから駒沢って、あのへんでは中心地みたいな印象で。
駅舎のちょっと脇に「駒沢書店」があって。すごく覚えてるのは、偉人伝が並んでて、そのなかに「ケサワヒガシ」っていう偉人伝が置いてあったんです。「『ケサワヒガシ』って、変わった名前だな」と思ってたら、あとで「毛沢東」だってことがわかった(笑)。
ははは! なるほど。
そんなことをよく覚えてますね。
そしたら、若い体育の教師が顔色変えて飛んできたんですね(笑)
ええと、お話しようと思ったのは……そう! 僕のうちは学校のすぐそばだったんだけど、小学校の3年か4年だったある日、着物を着た人が靴を履いて、うちの前をたくさん歩いてたんです。それがあとで、三船敏郎が主演をした『無法松の一生』の撮影だったってことがわかったの。
僕は中学校に同じ小学校の子がたくさんいますから、中学校のクラス会で「『無法松の一生』撮ってたよね?」って言ったら、誰も知らなかった。そうすると、僕の錯覚かもしれない。でも、「僕の記憶は間違ってない!」って思い続けてた。
それで、間違ってないって証明するために、後年TSUTAYAでビデオを借りて、観てみたんです。僕らの小学校って、校庭の真ん中に桐の木が立ってるんですね。でも、運動会の場面に、その桐の木が映ってない。校舎は間違いなく僕らの学校の校舎なんだけど。で、話は北九州の話ですから、「僕の記憶は間違ってるんじゃないか…?」と。
で、何度も何度もくり返して観たんです。そしたら、桐の木の影が映ってたんですよ! 「僕の記憶は間違ってなかったんだ!」っていうことでね。その、「着物を着た人たちが靴を履いて、うちの前を通ってた」ってことは、すごくよく覚えてるんですね。
そういう記憶があるんですね。
記憶でいえば……あのね、いまは駒沢公園がある場所って、僕が小学生の頃に駒沢球場ができるんですけど、その前は、土管が置いてあったりする場所だったんです。脇の方に土を盛った丘みたいなものがあって、僕らはそこを「ドカチン山」って呼んで、遊んでたんですが。見わたすかぎりに土が露出してて、向こう方が崖みたいになってるっていう、不思議な場所だった。
そこに駒沢球場ができたんですね。東映フライヤーズが本拠地にしたところなんだけど。球場の敷地のまわりが、ずっと金網みたいなフェンスになっていて、ところどころに穴が開いてるんですよ。試合じゃないときは、その穴から入ることができる。

そうすると、野球で打った球が落ちてるんですね。それを拾ってきて。球って、いまはどうかわかんないけど、皮をとると中に紐が巻いてあるんですよね。それをどんどん、どんどん解いていった…って思い出があります。
ちょっと昔の球場はそうだったんですが、スタンドの地面は、土だったと思うな。それで、ベンチみたいに横長の椅子がずっと並んでる。僕は4人兄弟なんですが、下は妹で、兄貴と一緒に行動してたんですね。野球を観に行って、スコアブックを買って、「一球目はなに」と書き込んだり。とてもおもしろかったですね。
あんまり強いチームじゃなかったんで、東映フライヤーズの岩本っていう監督が、ときどき不甲斐なさに怒って、自分で試合の途中から選手として出てくるんですね。それで、あとで調べてみたら、岩本監督は「監督兼選手」っていうことで登録されてた。でも当時の僕らから見れば、「監督が怒って出てきた!」っていう感じがするじゃないですか(笑)。「なにやってんだよ!」みたいな感じでね。 だからそれが、すごく印象的でしたね。その後、オリンピックをやるんで、球場は潰されちゃったんですが。
「ドカチン山」「東映駒沢球場」「オリンピックスタジアム」。僕は25歳まではあのあたりで生活してますから、その三段階を経験してることになるんですね。
中学校では、なにか印象に残っていることはありますか?
中学校……考えてみると、時代的には軍隊に行っていた先生が多いはずでしょ。だから、普段は温厚でも、急にものすごい凶暴になる先生がいるんですよ。
当時はのんびりした時代だから、学校対抗の、先生による野球の試合があったんです。僕らは校舎の二階から、それを見てた。で、ちょっと喘息なんですかね、よく咳の出る理科の先生がいたんです。彼が外野を守ってて。ちょうど下にいたんで、みんなで「エッ、エッ」って、咳をする真似をした。そしたら、若い体育の教師が顔色変えて飛んできたんですね(笑)。
「お前ら並べ!」って、ばって並んで、正座させられた。「やったのだれだ!」って聞かれたから、Oってやつが「僕がやりました!」と答えたら、バカーン! って殴られたんですよ。座ってんのを、バカン! って殴られて、またもとにもどったら、バカン! って殴られて……。担任の女性の先生もおろおろして、止めようがなかった。そういう時代だったなって思いますね。それが平気な時代だった。
時代的にも、戦争の時代とそんなに離れてない。
そうですね、いま思うと。僕らは子どもだから、そういう感覚はなかったわけですけども。
その後の人生でもそういう努力をちゃんとしてれば、 ずいぶん変わってたはずなのになって
あとは、世田谷って、都心に比べれば周辺地区で、のんびりした田舎だったな、みたいな印象がありますね。トマト畑があったり。
新町の駅の南方に、「善養院」ていうお寺があるんだけど、その手前のところにちょっとした工場があって。ドブがいつも光ってるんですよ。なんか、妙に光ってる。これはたぶんね、重金属とかを流したんじゃないかなと思うんだけど(笑)。当時は工業地区と住宅地区が分かれてなかったでしょ。平気でそういったものを流していた時代だったんですね。なんか光ってたの。すごく印象がありますね。
当時は、それが重金属だとかはわからなかった?
「あ、綺麗だな」って思うでしょ。いま考えると、光り方からして重金属じゃないかなって思ったりするんですね。
オリンピックは、なにか記憶に残っていますか?
オリンピックのときは僕、高校二年生だったんです。それで、都が高校生に切符を配ったんですね。タダで観に行ける切符。僕らは会場がそばだから、駒沢でやる種目の切符をもらった。で、僕がもらったのは重量挙げの切符。三宅っていう、彼が優勝した大会なんですが。駒沢公園に重量挙げを見に行ったっていうことは、印象としてはすごく強くありますね。
で、駒沢公園にはちょっとした思い出があって。僕ね、高校三年のときに仲良くしてた女の子がいるんですよ。それで、卒業式の前に、彼女と駒沢公園の方に散歩に行ったんです。
駒沢公園の中に球場があるんですが、そのバックネットの裏で、とつぜん彼女が僕にキスをした。それはすごい衝撃だった(笑)。「キスは男からするもんだ」みたいな気持ちがあってね。それが、駒沢公園の思い出としては、ものすごく強烈にありますね。
なかなかうまく話を長くできないですよね(笑)。
いやいや。
さっきの女性との話を長くすると、またね、あれですから。
僕は聞きたいですけど(笑)。そのときはお付き合いをされていたんですか?
そうですね。一応付き合うっていうか、難しいですね。どこまでが付き合いなのか。ただ、彼女は就職しちゃって、僕は浪人しちゃいましたから、なんかこうね、テンポが合わなくなっちゃう、みたいなことが起こってね。
あと覚えてるのは、中学校のときに、長距離走があったけど、僕はずっと順位が下の方だったんですね。それが悔しかったから、高校のときは、毎日じゃないけど2キロとか3キロぐらい走って、けっこう努力したんです。
それで、高校三年の運動会で1500メートル走があって、各クラスから二人出たんですよ。サッカー部のKっていうやつが一位だって目されていて。「誰が二位になるかな」とみんな思ってたんだけど、はっきり覚えてないですが、たしか僕が二位になったんですね。だからみんながびっくりしちゃって。
「中学校のときの屈辱を、練習して晴らした」っていうのは、我ながら「やったな!」と、いまになって思うんですね。その後の人生でもそういう努力をちゃんとしてれば、ずいぶん変わってたはずなのになって(笑)。
その後はできなかったと。
なかなかね、努力って難しいです。続けるのがね(笑)。でも、「ちゃんと努力すれば結果が出る」っていうことを知ることは、けっこう大事ですよね。
その気づきは、その後の人生にも生きましたか?
どうなんでしょうね。人生に生きてるかっていうと、うーん…。持続力はあるかもしれんね。
戦争体験者に話を聞くという活動も、10年ちょっと続けてるんです。だけど、持続するには必ず、だれかの助けが必要ですね。
だから、それからすごい謙虚になりました
A市の学習館のメンバーが手伝ってくれて、毎年、制作したビデオを公的な施設で上映してるんです。聞き取りの映像を編集して、その地域の戦争の記録として、やってるんですね。その学習館の助けがなければ公的には上映できないわけだから、すごく恵まれてる。「助けてくれてるからできてるんだ」っていう自覚は、すごく持ちますね。
……ぜんぜん関係ないんですが、僕わりと、「自分のことは自分でできる」って思い続けて、ある年齢まできたんです。ところが、50代に手術したことがあるんです。ある日突然、バーって出血したんですよ、お尻から。
ええ!? お尻から。
それで、大きな病院に行ったんです。そしたら、「メッケル憩室」っていう小腸の末端のところに、生まれながらにちょっとした欠陥があって、ものがちょっとずつ詰まると。それが、突然破裂したっていうことがわかった。
それで、ずっと診てくれてる先生が「俺が手術をする」っていうんで、「血液型はなんですか?」って聞かれたから、僕は「AB型RHマイナスだ」って言った。当然、いままでその病院に通ってたから、血液型は向こうが調べてるもんだと思ってたんですけど、調べてなかったんですよ。AB型RHマイナスってものすごく少ないから、血が手に入らないと死んじゃうわけ。どんどん、どんどん血が出ちゃってるから。
たまたま近くに日赤の血液センターがあって、そこに車を走らせて、1リットルぶん持ってきて、僕に輸血したんですね。もしかしてそばにセンターがなければ僕は死んでたかもしれない。それから、AB型RHマイナスの献血をしてくれた人がいなかったら、僕は死んでたんですね。
「それまで生きたのは、人に助けられてたんだ」っていうことを、そのとき初めて、ものすごい実感した。「実感が遅いよね」って、よく言われるんですが(笑)。
それはおいくつのときですか?
50代半ばですかね。だから、それからすごい謙虚になりました。「人間って、自分だけで生きてんじゃない。人に助けられてるんだ」って。ただ、それも結構忘れがちですよね。
戦争体験の聞き取りをしてるとおっしゃっていましたが、それはなぜはじめようと?
僕が住んでいるA市に、軍のいろいろな施設があったんですね。そこで働いていた人たちの記録を残しておこうっていうことで、聞き取りを公民館の事業としてはじめたんです。それで、僕がいろんなとこに電話して、対象者を探して、何人かで聞きに行くっていう活動を続けていたんですね。
すると、空襲に関わることが出てくるじゃないですか。そこで、「この地域の空襲のことを記録を残そう」っていうグループに入った。たまたまKって人が、空襲のことをすごくくわしく調べていて、しょっちゅうアメリカの国立公文書館に行っていたから、「僕も一回連れてってよ」って連絡して、一緒に行ったんですよ。
そしたら、A市が空襲されてる航空写真が手に入ったんですね。で、それを展示していたら、Nさんっていう女性が来て「あたし、この煙の下にいた」って言うんです。ちょうど煙が上がっている場所の、真下の防空壕の中にいたらしいんですよ。
そうすると、せっかく上空から撮ったB29側の写真と、地上で空襲にあった人がいるわけだから、「これをちゃんと記録に残したい」って思った。しかも、その人が直接体験を話してくれると。Nさんに「同じときに空襲を体験した人いませんか」って相談して、人を探して、それを構成してビデオをつくって…ということを始めたんですね。そうすると、けっこう大きく反響があったんです。
隣のB市には、B29が落ちてるんです。高射砲が当たって。二人捕虜が出たんですが、A市の小学校に連れてこられて、市民が殴打して、最後は軍人が首切っちゃうっていう事件が起こったんですよ。米軍側ってものすごく徹底して記録を残しますから、そのレポートを知り合いが手に入れてたんで、それを借りて。
ところが、体験者がいなければ、企画としてちょっとどうかな? って不安があった。だけど、たまたまその場に立ち会っていた人を見つけたんです。で、その人にインタビューすると、また次の人が出てきて。最後は、「小学生のときに叩いた」っていう人が見つかった。
それで、「戦争になれば、庶民も加害者になっちゃうんだ」という意味の題をつけたビデオをつくって。これも、100人ぐらいの人が観に来てくれた。そうすると、変な言い方ですが、味をしめるじゃないですか(笑)。「あ、観に来てくれるんだ」って。それが2015年だったんです。ちょうど戦後70年っていうことですね。それからも続けようっていうことになって、続けてるんです。
「あなたは逮捕されたことがありますか?」
さかのぼってしまうんですけど、学校の先生になったのはどういう経緯が?
僕は東京教育大学の出身なんです。僕は教師よりはジャーナリストというか、「新聞記者になりたいな」と思ってたんですが…。
朝日新聞を受けて、筆記試験には合格したんですよ。そうすると、今度は重役が並んで、面接があったんですね。そこでは、いまでは絶対聞かないようなことを聞かれたんです。「あなたは逮捕されたことがありますか?」って。
その頃、「ベトナム戦争反対運動」が盛り上がっていて、1968年10月8日、当時の佐藤栄作首相がアメリカが支える南ベトナムを訪問するのを阻止する闘争が組まれ、京大生の山崎くんが羽田で命を奪われました。
で、そのとき、僕も羽田に行ってたんですが、離れたところにいたので正確なことはわかりませんでした。当時は、「アメリカがベトナム人にひどいことやってるから、関心を持たないといけない」っていう共通理解が、学生にもあった時代なんですよ。
翌年デモに参加していて、機動隊ってデモ隊を大人しくするために、何人か捕まえようとして、抵抗すると公務執行妨害として不当逮捕するんです。それで、僕は不当逮捕されたことがあるんです。
よく覚えてるんだけど、逮捕したのが、Mっていう巡査だったんですね。僕らと年があんまり違わない。彼はなにしたかっていうと、レーズン持ってて、「おい、レーズン食うか?」みたいな(笑)。とても親しみが持てたんですよ。
そんなことが(笑)。逮捕されたあとにってことですか?
ええ。彼は一人捕まえたから、もしかして嬉しかったのかもしれないけど。
そんな感じで、ともかく逮捕されたことがあるんですよ。でも、黙っていれば問題ないはずなのに、「逮捕されたことはあります」って答えました。そしてもうひとつ、「あなたの大学は筑波移転が決まってるんだけど、移転をどう思いますか」って聞かれたんで、「学生の意向をまったく無視して、文部省に言うことを聞いて移すのは反対だ!」って言った。いまでも、それを言わなかったら、もしかしたら新聞記者になってたかもしれないなと思ったりするんですが、たぶんそうはならなかったでしょうね。
それで、最初はA市の市役所を受けたんです。市役所の試験は、そんなに難しくないし、面接ではそういったことを聞かれないから。市役所に一年だけいたんです。
でも、当時の都立高校って、生徒は「先生は授業だけやってくれればいいですよ、ホームルームは僕等がやりますから」みたいな時代だった。僕は日本史が好きだったんですね。だから、教師になれば授業は自分の好きなことができるわけですね。しかも夏休みも学校行かなくていいいし。「やっぱり先生がいいよね」っていうことで、受け直したんです。
なるほど。さっきの、学生運動の話を聞きたいんですが、どういう風に関わってたのですか?
アメリカが一方的にベトナムで爆撃して、民衆も殺してるわけですから、「黙って見てちゃいけない」っていう雰囲気は、ある程度、共通理解としてあった。僕は「こうしろ」って言われることは、納得しないタチなんですが、「黙っているのは認めてることになる」って言われると…。
でも、来てくれると、ちょっとほっとするんですよ
さっき言った10.8の後に、「君の平和が山崎くんを殺した」っていうスローガンが出たんです。そうすると、僕らとしては「それはそうだ、なにかしなきゃいけない」と、こうなるでしょ。だから、「黙ってちゃいけない」っていう気持ちは、うんと働いた気がします。
ただ、その後でね、まったく致命的だったのは、仲間を次々と殺害した連合赤軍事件ですよね。あの事件は、大学への機動隊の導入や大学立法で、普通の学生たちの運動が沈静化してしまったことが背景にあると感じます。「僕たちも、過激化しちゃったひとつの原因つくってるんだよね」みたいな気持ちは、なんとなく僕らにはありますね。
その後、若者が政治離れしちゃった大きな原因は、連合赤軍事件がつくってるわけですが、僕らがその事態をつくっちゃってるんだと。しかも、「学園闘争って、結果としてはなにを生んだんだ?」って言われると、具体的な成果がないじゃないかって。
自分たちが、連合赤軍の事件や、その後の若者の政治離れを起こしてしまったんじゃないのか、みたいな気持ちが。
そうですね。つまり、孤立を招いちゃった。周りがいなくなれば、どんどんどんどん先鋭化しちゃうことがあるでしょ。かといって、僕らがなにをしたらよかったのか、よくわからないけれども。なにかそういった気持ちが多少、残ってますね。
うーん…。「君らの世代はなにをしたんですか?」って聞かれると、自信を持って言えるものがないな、っていう感じがするんですよね。だから、そこを聞かれると、ちょっとつらいものがあるなって感じがありますね(苦笑)。
いまは、同じようなことがパレスチナで起こってて、若い人にはそれに危機感を持ってる人もいて、運動してますよね。ただ、それがあまり広がらない感じがある。そういったことが当たり前じゃない社会にしてしまった一翼を、自分たちが担ったかもしれないって。ちょっとねえ……。やっぱり最後の凄惨な状況があって、それが政治離れを起こしたのが、ずっと続いてるんじゃないか。
実感として、そういう気持ちがあるんですね。
僕にはありますね。
あのね、小学校の同級生のSさんっていう子が、駒沢大学の中に住んでたんです。野球部の食堂を、お父さんがやってたんだね。で、彼女に「駒沢大学に学園闘争が広がったとき、『あの人たちは親のお金で大学に行ってるのに、勉強もしないであんなことやってて!』って、当時はすごく思いました」って、言われたんです。
同級生がそう感じてたっていうことに、ちょっとショックを受けたというか。「あなたがた、なにやってたの?」っていうことでしょ。
ところが、そのSさんって、僕がやるビデオを、A市まで観に来てくれたりするんですね。うーん……だから、そのときの僕の反応に、彼女はなにか感じるところがあったのか……。
そのとき、というのは?
つまり、彼女が僕に当時のことを言ったときの僕の反応に、なにか感じたことがあったのか。それとも元来、親から戦争の話を多少でも聞いて、戦争のことを知りたいと思ったのか、わからないけど。
でも、来てくれると、ちょっとほっとするんですよ。「あなた、なにやったの?」っていうふうには、必ずしも感じてないんだなって。だから、Sさんはけっこう僕にとっては貴重な人なんですよね。
人の言葉って、力を持ってますよね。それでね、僕がビデオをとるようになったもうひとつの大きなきっかけがあるんです。ある高校で日本史の授業をやってたら、ある男子生徒が授業が終わったあと、「先生、NTVでやってる漫画日本史を使ってみたら、変化が出ていいんじゃないですか?」って言ったあとに、「先生ならできる!」って、言ったんですよ。
僕はそれを聞いて、「じゃあやってみようかな」と思って、授業でビデオを使うようになったんです。それから、漫画日本史の一部を5分くらい使うだけじゃなくて、昭和史の実写のビデオの一部とか、NHKの番組の一部を使うようになりました。それで、「映像には力があるな」って感じたんです。
彼が僕に、「先生ならできる!」って言わなければ、やらなかったかもしれない。彼が言った一言が、いまの僕がビデオをつくることを動かしてるって思うと、「人の言葉はすごく、大事だなぁ」って思ってます。「先生の授業はつまんないよ」って、遠回しに伝えてたのかもしれないけど(笑)。「あなたならできる!」っていう、とても励ましのいい言葉を言ってくれたなって、いまでも思いますよ。
その一言がなかったら、その後のビデオの活動はしてない?
そうですね。してないかもしれないですね。
生活史を聞いて:ミニインタビュー
山中散歩さん
コントロールしていく後ろめたさは、あった気がする
山中 僕がうかがったのは戦後すぐ生まれの方で。駒沢あたりに実家があって、小・中学校通った。就職して。いまは東京の別の町にいる方です。
取材対象探しがいちばん大変でした。仕事柄いろんな人にインタビューする機会はあるので、折角なら普段聞くことがない人に聞きたいって、駒沢のスナックに行って。もう誰に聞いても面白いだろうな、という方ばかりいて。お酒の勢いで「いいよいいよ」とLINE交換したけど、いざ「日程決めましょう」という段で連絡が取れなくなったり。
──でも、勇気あるなー。スナック、普段から行くんですか。
山中 たまにですね。人生になにかあった人が集まってる予感がありまして。ちょっとやり取りをした方もハードな人生を歩んでこられたようだった。けど、結果的に知り合いのお父さんの話を聞いて。「もう十分」というか、この方に話を聞けてめちゃくちゃ良かった。
仕事柄、普段からインタビューで人の話を聞いているけど、これまでは割と僕(聞き手)が船を漕いでるというか、記事の目的もあるので「こっちの方向でお願いします」みたいな。
で、今回そうでなく「相手が漕ぐ舟に身を任せる」っていう、これまでにない聞き方をやってみたけど、すごい心地良いというか楽しいし、「こんな風景見えるんだ」みたいな。新しい発見というか。
これまでどっかで、僕がコントロールしていく後ろめたさはあった気がする。それを手放せた。「手放したら面白い原稿にならないんじゃない?」「聞き手、書き手が『こっちだよ』としてかないと面白いものって書けないんじゃないか?」と思ってたけど、むしろ手放して相手が漕ぐ舟に乗っていっても、別の面白さが生まれるんだ。委ねていいんだって。
──普段の手癖はあまり作動させずに。
山中 出ちゃいました。例えばその方が、小学校のときから駒沢公園で遊んでて、そこが駒沢球場になり、その後にオリンピックがあって…みたいな話をされたとき僕の中で『中学校の話まだ聞けてないや』と思ってしまい、「ちょっと戻って中学生の頃の話を」と言っちゃった。
あとで文字起こしを読んで、「でもこのときオリンピックの話をしたかったんじゃないかな」みたいな。僕が舟のオールを「ぐいっ」てやっちゃったんじゃないかと後で思って。完璧にはできてなかった。けどいつもとは全然違う機会になりましたね。ライターの方にも勧めたいというか。めちゃくちゃいい経験でしたね。
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